「彼は日本国内の政治の世界においてのみ右寄りなのであって、基本的なイデオロギーはリベラルに近い。一般的に思われているような”右翼”では決してないですね」(同)
紆余曲折の東大哲学科時代を終えた渡邉は、読売新聞社の入社試験をトップクラスで通過。記者としての新たな人生をスタートさせる。ここでも、入社当初から渡邉の能力と個性は群を抜いていたという。渡邉と同期入社の評論家・塩田丸男が回想する。
「とにかく、ものすごく頭がよかった。同期の連中は誰も議論なんかしない。しても負けるから。取材に対する熱意もすごかったようで、他の記者から『あいつはすごい』という評判をよく聞きましたよ。ただ、当時から癇癪もちでね、よく怒鳴っていた。上司にも平気で文句言ってましたよ。上昇志向も強くて、酔うと必ず『俺は社長になる』と豪語していた。当時の読売は”正力商店”と呼ばれるほど正力一族の支配下にあった。一般入社のサラリーマン記者が社長になれるなんて、誰も発想しなかった時代ですよ」
2日で専門記者を超えた恐るべき能力
その後も渡邉は独自の人間力で保守政治家とのパイプを築き、スクープを連発しながら出世を続ける。そんな渡邉の当時の仕事ぶりを示す、ひとつのエピソードがある。以下は、前出の文芸評論家・郷原の回想だ。ちなみに、郷原は日ごろから「ナベツネは老害。即刻辞めるべき」と公言してはばからない”アンチナベツネ”に類する人物だ。その郷原が次のように言う。
「70年代初めにティーン雑誌の過激な性表現が社会問題になり、規制すべきか否かで議論が分かれていた。読売の社論を決める会議に、私は文化面での専門記者として呼ばれたんだけど、記者の間でも意見が分かれて、侃々諤々やりあったけどまとまらない。渡邉さんは論説委員長で、黙って聞いているわけです。結局その日は結論が出ず、また集まろうとなった。で、2日後に会議を再開したら、渡邉さんが完全にその問題の専門家になってるんですよ。極めて見事な論理で、規制すべきではないと、私が言いたかったことを代弁してくれた」
なぜ渡邉は急に、若者向け媒体の性表現問題に詳しくなったのか。郷原が後日、関係者を通して聞いたところによれば、渡邉は前回の会議の後に神田の古書店へ行き、関連本を10冊買って読んだのだという。文化部門の専門記者としての自負があった郷原の知見を、わずか2日で超えてしまったことになる。
「頭の良さもですが、刮目すべきはその姿勢ですよね。普通、論説委員長くらいになれば、偉くなって勉強なんかしないんですよ。すでに当時、渡邉さんは日本の政治のインサイドストーリーに関しては右に出る人がいなかったし、誰もが認めていた。雑誌のエッチな表現のことなんて、どうでもいいという態度でもおかしくない。それで、彼が書いた過去の記事を読み直してみると、政治記事も同じで、実によく勉強している。なるほど、これはすごいと。記者としては認めざるを得なかったですね」
とはいえ、そんな敏腕ぶりを発揮していた政治記者・渡邉も、つい先ごろの5月30日で86歳を迎えた。「メディア界のドン」「政界フィクサー」と呼ばれながら、「老害」との声もちらほらと聞こえてくる。清武氏との裁判が泥沼化すれば、原辰徳監督や江川卓氏の公判出廷の可能性も否定できない。そうなったとき、一番多くのリスクを負うのは巨人軍の親会社である読売であり、一番の被害者は野球ファンということになる。「読売は訴訟を起こして、逆に窮地に追い込まれている」(関係者)との声も聞こえてくる。読売の元スター記者が86歳になった今、晩節を汚してまで求めているものは何なのか。着地点は本人にすら見えていないのかもしれない。
(文=浮島さとし)