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織田直幸「テレビメディア、再考。」第1回

NHK堀潤アナ注目「パブリック・アクセス」というテレビ革命

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インターネットで常に完全中継されていた
東電の会見は、同会見を恣意的に扱うテレビメディア
の特異性と限界を明らかにした。
テレビが持つ意味や価値が大きく変わってきた。大衆への影響力はいまだ強く残るものの、ネット上では、その一面性や権威性、商業性などが批判の的となっている。「メディアの王様」の座が揺らぎつつあるテレビに求められる変革とは何なのか? キーマンたちへの取材を通して考える――。

「再び大震災が日本を襲い、前回同様、テレビメディアはまたしても国民の信を裏切り、全国の民放地上波局のテレビ視聴率がいっせいにゼロになってしまう」

 私が書いた小説『メディア・ディアスポラ』のあらすじの冒頭に、そんな文章がある。かつて高視聴率番組を次々と生み出した、私との付き合いは決して短くない某テレビプロデューサーにそれを見せると、一読し首をかしげた。

「ここ、間違っているよ。だって、震災前も後もテレビは視聴者を裏切ったりしてないもの」

 柔らかい物腰。ソフトな物言い。でも、その向こう側には本気の違和感が横たわっている。

 私は一瞬、驚いた。

 彼はテレビ業界の中でも、極めて柔軟な発想をすることができるタイプだった。その彼が「震災後もテレビは視聴者を裏切ってないない」と、真剣なまなざしで私に言ったからだ。

 が、次の瞬間、「いや、待てよ。ひょっとすると、彼が言っていることは、実は間違ってはいないのかもしれない」という思いが、ふと私の頭をよぎった。

 テレビが視聴者を裏切ったのではない。震災後もテレビは今まで通り、情報ソースの基本を記者クラブに置き、公的機関の発表を鵜呑みにしては流していただけだ。

 震災後にことさらテレビが新しい悪さや、何か変わったことをしたわけではない。震災後、変わったのは視聴者だ。視聴者の情報環境とそれに伴う情報センスが、劇的に変わったのだ。

 例えば、福島第一原発事故後、東電の記者発表は当然ながら注目されるようになった。この会見は、インターネットを使えれば、誰でも全時間にわたって見ることができるが、テレビの報道番組ではこれを編集し、数分ないし数秒だけ報じる。会見直後、会見に出席した記者と同じ情報量を得た視聴者は、たまたまつけたチャンネルでこの放送を見ることになる。

 この時、この視聴者には「都合のいいところばっかり編集しやがって」などといった、尺(放送時間)にまつわる不満がまず起こる。しかし、これはほぼ物理的問題でもあり、仕方がない。

 むしろそれより問題なのは、視聴者がそれらの情報に初めて触れるのではなく、ユーストリームやニコニコ生放送といったネットメディアで全記者会見の情報に触れた後、テレビで報道される情報に触れている、ということだ。

 つまり、テレビ報道の情報に触れる時、視聴者はすでにその情報に関する価値を自分なりに決定してしまった後であり、さらに全体の情報の中でどこが重要でどこが重要ではないのかに関する軽重すらも、頭の中で完成してしまっているのである。

 ある程度のネットリテラシーを持つごく普通の人たちの情報量とその情報獲得スピードが、時にテレビメディアに携わる人間より上になった。一言で言ってしまえば、これが致命的な変化だ。