私も全く同意見だ。現在の情報環境の中で、テレビが今さら“川上から”情報を流す必要などもうないし、そもそも情報の“川上”という概念自体が成立しなくなった。そんな時代は終わったのだ。ただし、情報のプロとして情報精査の役割は残る。ネット上の玉石混合の情報を仕分け、意味のある情報と判断できた情報だけを流すということはできる。
テレビが変わっていくべき方向性に関して、堀さんは「パブリック・アクセス」というキーワードを使って、最近よく話す。パブリック・アクセスとは、市民が公共の電波を使って自由に情報を発信できる権利のことだ。彼はこれを実現させるため、今、 東奔西走する毎日を送っている。
「パブリック・アクセスとは、国民がメディアを使って自由に表現できるということ。電波が国家の資源であるなら、その資源を使う権利を保障するのはある種、当然のことだと思う。僕は例えば『第二NHK』を作ってでも、市民がNHKを自由に使えるような場を作りたい。例えば『ニュースセンター』の中に『市民局』というものがあり、そこに市民が5人くらいくらいいて、“なんであの原発の報道をしないんですか”などと言いながら、実際彼らがそれを調査して放送する」
堀さんのこんな言葉をぱっと聞くと、日本のテレビに慣れている私たちには夢物語のようだが、ちょっと世界を見渡してみると、私たちはこのパブリック・アクセスを当たり前のように目にすることができる。
例えば、アメリカでは公共放送やケーブルテレビを中心に300局近い放送局がこれを実施しているし、韓国では2000年に施行された新放送法によって公共放送KBSでのパブリック・アクセスの一定の実施が義務付けられている。 このKBSでのパブリック・アクセスに関しては、「韓国KBSのパブリック・アクセス」(「NHK放送文化研究所」)で詳細にレポートされている。
「パブリック・アクセス」を実践している。
ツイッター、フェイスブック、ユーストリームやニコ生などのSNSメディアとのつきあいの中で「自分たちでも情報発信ができるのだ」ということを私たちは思い知った。さらに、そこで受発信したい情報と、テレビ・新聞などのマスメディアが発信する情報があまりにも乖離していることも腹の底から思った。これが3.11以降の多くの人の実感だったのだと思う。
たしかにパブリック・アクセスはこうした視聴者と制作側の情報実感値の乖離を、少なくとも小さなものにしてくれる期待ができる。しかし、私にはそのこと以上にパブリック・アクセスに期待するものがある。
パブリック・アクセスは視聴者側の意識を変えるだけではなく、結果的にはテレビ側の意識も変わらざるを得ないのではないだろうか……と思っているのだ。
パブリック・アクセスの、テレビ側への影響
かつてTBSでディレクターを務め、現在はフリーの映像作家の森谷博さんという方がいる。前段で紹介した“テレビに見切りをつけ退社し、今は映像作家をやっている”人だ。2010年には『TOKYOアイヌ』という映像作品を完成させた。3.11以降、彼は農業をやりつつ、ユーストリーム中継を独自に行い続けている。
昨年の「6.11脱原発新宿デモ」では、ジャーナリストの岩上安身氏が主催するIWJ(インディペンデント・ウエブ・ジャーナル)の中継スタッフとして、レポーターである私とともにいっしょにデモ中継した仲間でもある。
【参照:2011.6.11脱原発アクション・ライブ中継】
・前編 http://morymeg.exblog.jp/16472209
・後編 http://morymeg.exblog.jp/16476564