森谷さんはテレビが持っている問題を、こんな風に語る。
「テレビを作っている側は、実は『見られている』という意識が低い。見ている人の総数みたいなものが、例えば何百万人とか何千万人とか数字自体が大きすぎて、あるいはそれに慣れすぎて、自分らの番組が『見られている』という感覚が麻痺している。ネットやユーストだとリアルタイムでコメントは来るしリアクションがばんばん伝わってくる。テレビの場合、よっぽどのことがあると、ばぁーっと一斉に電話が鳴ったりすることもあるけれど、基本的には静かなもの。そのバックに何百万、何千万というという単位の視聴者がいるということにリアリティを持てる人間は少ないだろうし、僕自身もそういうリアリティを持てなかった」
森谷さんは民放テレビの現場とユーストによる市民中継の両方を熟知している。その彼がいうテレビ現場の、いわば感覚的磨耗は説得力がある。
例えばパブリック・アクセス的な発想をベースに、そうした放送現場に中継市民が行き、もちろん放送のプロにも手助けしてもらいながら番組を企画し取材し放送したら、放送現場はどうなるのか。
局側の意識にも少なからずインパクトがあるのではないだろうか。放送のシロウトがプロの現場で一生懸命企画を立て、不器用ながら取材も行い、構成していく。目の前で展開するそんな光景には、放送現場のプロにも何かしら感じ入るものがあると思う。
こうした番組制作参加によって変えられるのは視聴者側でもあり、だからテレビ側でもあると、私は想像する。今後、私を含めた多くの人に新たなメディアリテラシーとメディア論がますます必要とされてくる時代になる。そして、それは当事者であるテレビメディアに携わる人間にとっても、全く同様なのだ。もう少し言ってしまえば、実は今、一番メディアリテラシーが必要とされているのは、テレビメディアに携わっている人間なのかもしれない。