世の中には、あまりにも強大な権力を持っていたり、その存在自体の影響力があまりにも大きいために、批判にさらされず、あるいは批判が意味をなさないような、いうなれば「怪物的」な人物がいる。
それは政治家であったり、経営者であったり、またはスポーツ選手であったりするが、最たる例は、読売グループのドン、渡邉恒雄氏だろう。
渡邉氏への一般的なイメージは決して芳しいものではない。プロ野球・巨人軍のオーナー時代は「独裁者」「老害」「傲慢」といったワードが付きまとい、「悪役」という印象しかない人も多いのではないか。
しかし、そのイメージの良し悪しはともかく、戦後まもなくの時期にいち新聞記者としてキャリアをスタートさせ、政治部の記者として数々の歴史の節目に立ち会い、社内の苛烈な権力闘争を勝ち抜いてトップにまで登り詰めた「立志伝中の人」ではある。
『専横のカリスマ 渡邉恒雄』(大下英治/著、さくら舎/刊)で描かれている同氏の半生からは、良くも悪くも強烈な権力欲と知力、そして老獪さが同居した、一筋縄ではいかない圧倒的な個性がうかがえる。
■新聞記者の眼ではなく「派閥の目」
渡邉氏がその権力の足がかりを築いたのは、読売新聞政治部の記者だった時代だ。1954年、当時自由党総務会長だった大野伴睦の番記者となった渡邉氏は、みるみるうちに大野氏の信頼を勝ち取り、懐に入り込んだ。
番記者というのは取材対象の代議士と親しくなってナンボというところはあるのだが、渡邉氏の場合はそれが度を越していたという声がある。
読売の政治記者として渡邉氏の先輩にあたる磯部忠男氏は、「彼の眼は新聞記者の眼じゃなく、派閥の眼なんです」として、新聞記者としての渡邉氏が、取材対象との距離感について極端にバランスを欠いていた点を指摘している。
こんなエピソードがある。
当時の大野番記者には4段階のランク付けがされており、玄関で止められる者、玄関脇の書生部屋まで行ける者、応接間まで入れる者、ここまでを経て、奥の間で大野本人と対面できるまでには、長い間通い詰めなければならなかった。
ところが、ようやく奥の間まで辿りついた記者が目にしたものは、大野派閥のトップ4人と、彼らに囲まれて座る大野本人、そしてその傍らに座る渡邉の姿だったという。つまり、渡邉氏は大野派のどんな議員よりも大野本人と近い位置にいたわけで、そういった子飼いの議員たちに説教をしたり、政策、政局についてのアドバイスをするのが渡邉氏の役割だったという。