世の中には、時として科学では説明できない不思議な出来事が起こる。そんな現象を我々は超常現象と呼ぶが、科学の発展とともに解明されてきたものもあれば、なおも解明されぬままのものも多い。そんな超常現象のひとつにテレポーテーションがある。テレポーテーションとは、ヒトや物体が離れた場所に瞬間的に移動する現象を指し、それをヒトが起こす場合は超能力としてとらえられる。
我々が実際に目にする機会はほとんどないと思われるが、神話や伝説、民間伝承においては決して珍しい現象ではない。また、SFの世界でもよく取り上げられるため、超常現象のなかでも、概してイメージしやすいものといえるだろう。そんなテレポーテーションは、滅多に起こらない現象とはいえ、過去を振り返れば、世界中でいくつも報告されてきた。記録に残された出来事で、欧米では比較的ポピュラーでありながらも、日本ではあまり知られてこなかった古い事例のひとつを紹介することにしたい。
1593年10月24日、スペイン人兵士のヒル・ペレス(Gil Perez)は、フィリピン治安警備隊の一員として、マニラにあるゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督(1519-1593)の宮殿で警備を行っていた。その前夜、総督はルソン島沖のカカ島近くの海上で中国の海賊に襲われて命を落としていたが、ペレスは新しい総督の任命を待ちつつ、なおも宮殿の警備を行っていた。
その日、任務で疲れ切っていたペレスは、壁にもたれ掛かり、目を閉じ、しばし休息を取ることにした。実は、それが運命の分かれ目となったのである。
「脱走兵」「悪魔の遣い」扱い
ペレスが次に目を開けた時、そこはそれまで自分がいた場所とはどこか異なっていた。違和感を覚えながらも、ペレスは警備の任務を続けていたところ、見慣れぬ制服を着た数人の警備官がペレスを見つけ、何者なのかと尋ねてきた。ペレスは前日に暗殺されたダスマリニャス総督の宮殿で警備官を行っていると答えたが、彼らに知らされたのは、驚くべきことに、そこはメキシコシティーだったのである。
メキシコシティー当局は、突然のように現れたペレスを脱走兵とみなすとともに、悪魔の遣いであるとして投獄した。これは、ただ目を閉じて休んでいただけのペレスが受ける仕打ちではなかった。だが、数カ月後、ようやくペレスにとって転機が訪れた。フィリピンからの船が、ダスマリニャス総督が暗殺されたというニュースをメキシコシティーにもたらしたのである。また、乗組員の一人が獄中のペレスを知っており、総督の死の翌日に確かに彼をフィリピンで見たと言ったのである。結果、ペレスは脱走兵でも悪魔の遣いでもなかったことが証明され、当局は彼を釈放し、帰還を許したのだった。
なお、この情報源は、フィリピンを征服したスペイン人「サン・オグスティンのフレイ・ガスパール」による1698年の言及に遡るとされる。また、メキシコで暮らしていたアメリカ人民俗学者トマス・アリボーン・ジャンヴィエは、雑誌「Harper’s Magazine」(1908年12月号)において、当時メキシコシティーのあらゆる階層の人々がこの出来事を話題にしていたと記していた。
もちろん、この出来事を疑う歴史家たちは決して少なくないが、事実であれば、瞬時の移動、まさにテレポーテーションの結果と呼ぶに相応しいもので、現代科学ではまったく説明できない現象といえるだろう。そして、ペレスにとってはまったく災難としかいいようのない体験であった。
とはいえ、ペレスにとって唯一不幸中の幸いとも呼べる偶然があった。それは、当時フィリピンもメキシコもスペインの植民地であり、同じスペイン語が通じたことだった。もし16世紀という時代に、言葉も通じない異国、しかも未開の地にテレポーテーションしていたら、いったいこのケースはどのような結末を迎えていたのだろうか。おそらく、記録に残されることすらなかったに違いない。
(文=水守啓/サイエンスライター)