最近騒がれている「キャッシュレス社会」、QRコード決済サービスが多数出現したことによって盛り上がりを見せているかのようにみえる。しかしそれだけ、キャッシュレス社会が実現していなかったということの証明でもある。
『クレジットとキャッシュレス社会』はいつの時代の本か
『クレジットとキャッシュレス社会』(教育社)という本がある。「キャッシュレス」が騒がれる最近の本ではない。1979年の本だ。著者は椎名誠。椎名が業界誌に勤務していた時代に書いた本だ。のちに椎名は作家になる。今から40年も前の本である。筆者が生まれた年だ。その時代から「キャッシュレス社会」は課題としてあり続けていた。
日本でクレジットカードが登場したのは1961年。60年代に各社がクレジットカードのサービスを開始し、分割払いやキャッシングの問題もしだいに指摘されるようになる。当時のクレジットカードは事業者が乱立し、それぞれの事業者が店と契約しているという状況があった。現在のように、VISAやMasterCard、JCBといった「国際ブランド」がついているわけでもなく、国内のみで通じるブランドが多くあり、店によって使えたり使えなかったりということがあった。
しかし、それも「国際ブランド」がそれぞれのカードにつくことにより、問題は解消された。QRコード決済の現状と似ていないだろうか。各社規格が乱立し、使用できる店もばらばら、この先はどうなるかわからない。現在のQRコード決済をめぐる状況は、この時代に近い。
40年も前からキャッシュレス社会が叫ばれ続け、なかなか実現はしなかった。その後も、さまざまなキャッシュレスの試みは続く。
デビットカードは受け入れられなかった
よく「アメリカではデビットカードというものがあり、それで決済すると銀行から直接お金が引き落とされる。それでクレジットヒストリーをつくり、クレジットカードをつくる」という話がされる。
クレジットカードの場合、「使いすぎて払えない」という事態が起こり得る。しかしデビットカードならば銀行口座に預けている範囲内なので、使いすぎることはない。なぜそういうものがないのか、とお思いの人もいるかもしれないが、この国にもそういったものはあるのだ。「J-Debit」という、銀行口座からキャッシュカードで直接支払いのできるサービスが、すでに2000年にサービスが開始されている。
しかし、これは使える場所が少なかったり、時間帯によっては使用できる場所が少なかったりという問題があり、なかなか普及しなかった。ヨドバシカメラなどの家電量販店では導入されているケースはあるものの、クレジットカードのようには普及していない。
だが、多くの人が持つ銀行のキャッシュカードには、この機能が搭載されていることは、知っておいてもいいだろう。「家電量販店で高額なものを現金で買いたい」というときに、現金を引き出しておかなくても店で買えるからだ。使用できるカードには、裏面に「J-Debit」のロゴが記載されている。
そのほかにも、さまざまな銀行でクレジットカードの国際ブランドがついたデビットカードが発行され、少しずつ普及している。海外での買い物に便利だったり、海外ATMで預金を引き出せたりすることが利点だ。
多くの人に受け入れられた交通系ICカード
JR東日本の「Suica」を中心とする交通系ICカードは、一般の人がもっとも使っているキャッシュレス決済ではないだろうか。きっぷの代わりとしても、駅売店やコンビニでの買い物の決済手段としても、多くの人が利用している。
交通系ICカード登場時には、関西エリアではプリペイドの「ICOCA」(JR西日本)と、ポストペイ(クレジットカードのように審査が必要で、利用した分だけあとから払う)の「PiTaPa」(関西私鉄)の対決があったが、ICOCAが勝った。現在では多くの関西私鉄もICOCAを導入している。QRコード決済を今さら導入しなくても、交通系ICカードを日本のキャッシュレス決済の中心軸として育てていけばよかったのではないか、ということは十分考えられる。
安倍政権がキャッシュレス社会を声高に叫ばなくても、実現される素地はすでに十分あったのだ。そして、QRコード決済にスマートフォンの交通系ICカードのアプリを組み合わせるような仕組みができれば、交通系ICカードは今以上の地位になるだろう。
なぜ「キャッシュレス社会」にならないのか
キャッシュレス決済が進まない理由として、加盟店手数料の高さが挙げられる。個人店だと高く、チェーン店だと安い傾向がある。しかし、それは普及のために手数料を下げさえすれば問題にはならない。どこかのクレジットカード会社や交通系ICカード事業者が、加盟店手数料を下げ、簡便なシステムを導入できるようにさえすれば、解決するだけの話だ。
筆者のように交通系ICカードをよく使用している人間からすると、交通系ICカードの中心軸となっている「Suica」(JR東日本)が、率先して加盟店手数料を引き下げ、かつ端末のシステムを簡素化し、多くの小規模事業者にばらまけば、一気に普及すると考えている。
一方で、現金払いへの需要は根強い。現金は匿名で使用できる。キャッシュレス決済とは違い、使用者の情報と紐づけされてはいない。個人情報というものがさまざまなところに集まる電子化の時代に、現金は最後の匿名行動の聖域となっている。
現金は誰が触ったかもわからず、現金を触ったあとは手をよく洗うように、と言われた人も多いだろう。どんなルートを通ってきたかさえわからない、硬貨に至っては昭和の時代から使われ続けているものがあるのにもかかわらず、信用され普通に使われている。
そのあたりを考慮すると、現金がいまだに一般に使用されているのは、意外性さえ感じる。「現金がなぜ信用されるのか」ということを考察でき、その問題を解決できれば、キャッシュレス社会は一気に実現するだろう。
しかし最近、新紙幣がつくられるとの発表もあり、そのなかで1万円札もモデルチェンジするということも決まっている。高額紙幣の廃止が世界的に進むなか、1万円札も残し、新紙幣までつくって現金の体制を守ろうとしている。キャッシュレスの時代に逆行している印象さえある。
電子化が進むなかで、高度な印刷技術を使ってでも紙幣を残そうとする財務省・日銀と、キャッシュレス社会を進めようとする経済産業省。現金の信用性の問題の上に、省庁間のせめぎあいもからんでいる。
(文=小林拓矢/フリーライター)