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日本電産・永守会長の“冷血”経営…社長候補の地位を次々剥奪、「死ぬまでオーナー経営者」

文=有森隆/ジャーナリスト
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日本電産・永守重信会長兼最高経営責任者(写真:ロイター/アフロ)

 日本電産は2月4日、4月1日付で関潤氏が社長執行役員となり、6月の株主総会を経て代表取締役社長に就任する人事を発表した。京都市内のホテルで関新社長をお披露目した永守重信会長兼最高経営責任者(CEO)は「絶好の人材が来た」と述べた。吉本浩之社長は副社長に降格となる。

「吉本さんは永守さん以外で社長になった唯一の人だが、他の“社長候補”同様、徐々にフェードアウト(=退社)するのではないか」(関係者)

 取材陣は、この会見でワンマン創業者の焦り、いや“冷血”ぶりを見た。

「(吉本氏は)販売は強かったが、文系でものづくりに弱かった。ものづくりのプロを招かないといけなかった」

「能力はあるから4、5年してトップに再チャレンジしてほしい」。

 お披露目会見だから主役は関氏のはずだが、いつもの通りで、永守氏の独演会に近かった。

 関氏は「騙されたつもりで来いといわれ、騙されて来た。企業の持続性は成長だ。『10兆円を一緒にやろう』と言ってくれた。これにクラクラときた」「やれると思っている」と日本電産入りの理由を語った。

 永守氏は2018年、吉本氏に社長の椅子を譲った。重要な経営課題について永守氏の決済を得る集団指導体制に移行したが、永守氏は「5、6人による集団指導体制では時間がかかる。創業以来、生涯、最大の間違いだった」と切って捨てた。今後は、永守・関のホットラインで経営を主導する。

 永守氏によると、社長交代を考え始めたのは19年夏ごろ。米中貿易戦争などを背景に業績が伸び悩んだからだ。「(吉本氏は)経験が足りなかった。経験がないと人心掌握は難しい」。この時点で、関氏に白羽の矢を立てた。ワンマン経営者が見切りをつけた雇われ社長に「人心掌握」を求めること自体が矛盾しているのだが、怖くて誰もこんな正論は吐かない。

「後々に権限を(吉本氏に)委譲する」どころか、ここ数回の決算記者会見は社長をすっ飛ばして永守氏の独演会となっていた。

 19年10月の決算説明会で、姿が見えない吉本社長に関する質問が出ると、「“永守経営塾”は甘くない」などと突き離す言い方が目立っていた。

 関氏はすでに5カ国・12の関連子会社を視察したという。趣味はゴルフだが、永守氏はゴルフ嫌いだからだろう、当面は封印するそうだ。「会社を10兆円企業にしてから、また(ゴルフを)やりたい」とした。永守氏の後継者として、日本電産を新たな成長軌道に乗せることができるのか。永守氏の我慢の限界は2年だろう。

日産からの華麗なる転身とはいかなかった

 関氏は19年12月1日付で船出したばかりの日産のトロイカ経営陣の要である副COOに就任した。とはいえ、内田誠社長兼最高経営責任者(CEO)、アシュワニ・ダプタCOOに次ぐNo.3だった。タプタCOOは三菱自動車からの転身組。内田CEO、関元副COOは内部昇格だが、取締役会が打ち出した「若返り」の旗印のもと、内田氏が専務からの“飛び級人事”で社長になった。関氏は年下のCEOの下で働くことになったわけで、「面白かろうはずがない」(日産元役員)。

 19年12月、日本電産の永守会長から受けた電話で関氏は、日本電産入りの決意を固めたとされる。実際、関氏は「私はもう58歳。(日産を)辞めるのは、社長として辣腕を振るいたかったから」と話していた。

 日本電産の創業は1973年。永守氏が一代で売上規模1兆6000億円の企業に育て上げた。永守氏は常に後継者を探してきた。

「日本電産はいい会社だが中小企業。永守氏以外に社長をやれる人はいない。それで外から引っ張ってくる。日本的風土の大企業からというところが、永守さんが求める人材の特徴。外資系からは採らない」(外資系証券会社の自動車担当のアナリスト)

 これまでの“社長候補”をざっと紹介しておく。2013年、日産自動車系の部品会社だったカルソニックカンセイ(現マレリ)社長だった呉文精氏を副社長に据えた。後継者の最有力候補と目されたが、呉氏は統括していた車載や家電事業で実績を上げることができず15年に退社。その後、呉氏は車載用マイコンで世界首位級のルネサスエレクトロニクスの社長になったが、その後、解任の憂き目にあった。

 次にシャープの社長だった片山幹雄氏を技術部門のトップにスカウトし、15年6月、取締役副会長に就けた。片山氏を“ポスト永守”の最有力候補と囃し立てたマスコミもあったが、永守氏が「60歳代の人に渡す時代じゃない。相当若返りを図る」と述べたことから、片山氏の社長就任の芽は消えた。現在、副会長兼最高技術責任者だ。

 永守氏の目標は2030年度に売上高10兆円企業に飛躍させること。そこで、タイ日産自動車の社長だった吉本氏を15年、日本電産トーソク社長にヘッドハンティング。翌16年、日本電産本体の副社長に抜擢した。車載事業を次の成長の柱と位置付けているから、その道のプロを後継者に選んだはずだった。18年6月20日の株主総会後の取締役会で吉本氏は社長兼COOに就いた。社長交代は創業以来初めてのことだった。

 19年3月期の連結決算の大幅な下方修正を同年1月に発表した際に、「これまで経験してきたことのない落ち込み」と永守氏は危機感と募らせた。20年1月23日の決算説明は永守氏が行った。19年10~12月期連結決算(国際会計基準)の営業利益は前年同期比15%増の326億円と5四半期ぶりに営業増益となった。だが、電気自動車(EV)用駆動モーターの生産の立ち上げに伴う費用負担が重く、20年3月期通期の最終利益は前期比23%減の850億円へと、再度、下方修正した。新型肺炎などもあり、この数字の達成も予断を許さない。

 吉本氏は社長就任から2年足らずで、その座を追われたことになる。鳴り物入りで入社した元シャープ副社長の大西徹夫氏も、入社2年で副社長の地位を剥奪された。「実力主義」の永守氏は、駄目なら容赦なく切る。

 日産からは、呉氏、吉本氏に次いで、関氏で3人目となる。技術者出身の関氏の経営手腕は未知数だ。永守氏が要求する売上高10兆円(20年3月期1兆6500億円の見込み)、営業利益率15%(同9%の見込み)を達成する“力仕事”をやりとげることができるのだろうか。

タイムリミットは2年?

 永守氏が何を考えているか、そんなことは関氏は百も承知だろう。勝負は2年。結果を出せなければ、これまでの“ポスト永守”候補の二の舞になる。

「確かに関さんは日産プロパーで日産のエリート。自動車業界に顔が利く彼の人脈を生かす、との計算が永守さんにはある」(永守氏と親しい経営者)

 永守氏は社長という肩書を譲っても、経営権を譲るつもりはさらさらない、というのが関係者の一致した見方だ。「オーナー経営者は死ぬまで経営者。死ぬまで経営に口を出す」(外資系証券会社のエレクトロニクス担当のアナリスト)。それが、創業者の業(ごう)だ。

(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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