マグロ遠洋漁業、働き方改革への挑戦…若者の就業者増加に課題、水産業を左右

資格と経験によっては年収2000万円も見込めるほど高収入だが過酷労働だというイメージが強いマグロの遠洋漁業。最近では労働環境・条件が改善され、若者の就労希望者が増えているという報道もみられるが、漁業関係者は「全体でみると就業する若者が増えたが離職率は高く、多くの漁船が外国人労働者に依存しているのが現実。誤った情報が広がると業界の将来にとってマイナス」と指摘する。実態はどうなっているのか、漁業関係者に取材した。
平均年齢56.4歳、65歳以上が37.7%、39歳以下が19.3%――水産庁が発表した漁業就業者の2022年時点の年齢分布である。漁業は就業者の高齢化が進み、世代交代が迫られている業種のひとつだが、若手人材の確保にあえいでいる。ネットには、もっぱら遠洋漁業就業者の高収入をクローズアップした情報が飛び交い、民放でも高収入と快適な職場環境を強調して、就職人気が高まっているかのような番組が放映されたが、実態はどうなのだろうか。
公的なデータはないが、遠洋マグロ漁業就業者は離職率がかなり高い。
「『大卒遠洋漁業の就業者急増』とか『漁業就職イベントで遠洋マグロ漁業に若者殺到』といったキャッチーな表現で報道されているが、採用人数ではなく、数年後にも何人が辞めないで定着しているかが大事である。3年の乗船歴を積んで海技士資格を取る人が求められているが、それまでに辞めてしまう人が多い。定着させる対策が必要だが、なかなか難しくて離職に追いついていない」
そう指摘するのは一般社団法人全国漁業就業者確保育成センター(以下、センター)の馬上敦子事務局長である。センターはこれまで20年を越え毎年、漁業従業者の採用イベント「漁業就業支援フェア」を主催する一方で、近年は就労環境の健全化を目的に、漁業会社に対して改善指導などを実施している。
まず高い離職率の要因である就労環境に触れておきたい。多くの遠洋マグロ漁業の航海期間は約10カ月。センターの調査によると、操業中の1日の労働時間は会社によって「10時間」「13時間」「8~12時間(交代制)」「3交代制で投縄当番(6時間)、揚縄当番(12時間)」などで、以前に比べると「機器の導入で1時間程度短縮できた」という会社もあるが、多くの会社では変わっていない。環境の改善では、WiFi整備など通信環境の拡充に取り組む会社が多いが、個室整備によるプライベートの確保は経費とスペースの問題もあり一部にとどまっている。
労働環境の特殊性
しかし、労働時間、設備、船室などが改善されても、人間関係に由来する空間はなかなか変わらないのではないのか。航海中の船舶内は特殊な空間である。国土交通省海事局は「船員の健康確保の現状について」(2019年9月)で、2つの特殊性を取り上げている。
ひとつは、海上危険に対して独力をもって対応するしかない「孤立した危険共同体」であること。もうひとつは、一般社会から切り離された生活共同体への加入を強制される「離家庭・離社会性」であること。そのうえで「海上労働への参加は、一般社会から切り離された生活共同体への加入を強制されるという特殊性がある」と述べている。
遠洋漁業の船内組織は、漁労長(船頭)をトップに、船長がナンバーツー、その下に通信長・機関長・甲板長、そして現場の作業専従者として機関員と甲板員が配置されている。標準的な人員は24人、うち日本人が6人、外国人が18人という組み合わせで、日本人は海技士資格を保有する「船舶職員」を含む6人以上の乗船が義務付けられている。
これだけ外国人が多いのは日本人の就業者が少ないからで、その背景は、日本人が定着する職場環境に改善されていないことにある。外国人労働者に頼らざるを得ない他の業種と同様だ。
「日本人が辞めれば外国人でカバーすればよいという人事の体質が、十数年をかけてできあがってしまった。以前から私たちは日本人の雇用を増やすことを提言しているが、外国人のほう辞めずに働いてくれるし安く使えてよいという意見が多い」(馬上氏)
しかも、これだけの少人数で10カ月の航海期間中は24時間を共に過ごし、乗組員同士に密な人間関係が形成される「離家庭・離社会性」の環境は、ともすればパワハラの温床になりやすい。馬上氏は「船という狭い中で陸上より人間関係が密であるため、パワハラなど人間関係により離職する人が多く時には乗組員から相談を受け、変えていかなければいけないと会員の漁業会社と取り組んでいるところ」とのことだが、センターの調査でも、新人乗組員が離職する理由に「人間関係」「乗組員との不仲」が目につく。
パワハラ問題の現状
漁業会社にパワハラ問題の現状認識を尋ねてみたところ、下記の回答を得られた。
「当社では大きな問題は発生していないが、海上で乗組員間の問題が発生した際は、双方への聞き取りを行い、漁労長を仲介して問題の改善に向け、対処したいと考えている。また帰港後に直接、双方と面談を行い、解決に至っていない場合は対応策を講じる」
この漁業会社はパワハラ対策に次のように取り組んでいる。
「ベテラン乗組員には若手乗組員に積極的な声掛けをするとともに言葉使いなどの注意をお願いしている。また若手、ベテランを問わずにLINEで情報交換をして、悩み事があれば打ち明けてもらっている。今後は、出航前にベテラン乗組員を中心としたパワハラ防止に関する勉強会行うことを検討している」
もうひとつ、離職が多い背景には、船内では絶対的な権限を持つ漁労長が、会社にとってアンタッチャブルな存在であることも挙げられるという。
「遠洋漁業の漁労長は70代という船も多く、後任の不在を背景に毎年会社が拝み倒して乗ってもらっていることもあるので、そうした場合、漁獲(=売り上げ)を左右する漁労長に対して、漁業会社の社長も意見を言えない関係にある。新人の乗組員について『どうして、こんな奴を乗せるんだ!』と文句を言われても反論できず、その乗組員は辞めていくという悪循環が続いていると思う」
この悪循環は馬上氏にとって看過できるものではない。以前から漁業の働き方改革やパワハラ防止対策の必要性を言及してきたことから、ここ数年は講習会の依頼があり、自ら漁村に出向き漁業者に向けパワハラ防止講習会を行うことが増えた。
健康管理に関する課題
さらに約10カ月におよぶ航海期間中の職場環境では、健康管理も懸念される課題である。病気・ケガにはどう対処しているのだろうか。
前出「船員の健康確保の現状について」は「船員は船員以外と比べて、疾病の発生率、肥満者やメタボリックシンドロームの割合が高い等、 健康リスクが高い状態にある。陸上と比較してどの年代でも船員の疾病発生率が高い」と指摘している。さらに水産庁の発表によると、漁業での労働災害発生率は陸上の全産業平均の約5倍にも及んでいる。
船内で発生する病気やケガの治療には、遠洋漁業の船舶には、船員法82条で乗船が義務付けられている衛生管理者が担当する。衛生管理者の要件は「労働安全衛生法に規定する衛生管理者の資格を有し、船舶に乗り組み2年以上船内の衛生管理に関する業務に従事した経験を有する者」。衛生管理者は筆記試験(労働生理、船内衛生、食品衛生、疾病予防、薬物など)と実技試験(救急処置、看護法)に合格して取得できるが、船内で実施できる治療・処置には限界がある。まして漁船に乗船する衛生管理者は、医師・歯科医師・看護師などの医療専門職ではない。
したがって重篤な病気やケガに対しては、最寄りの港に緊急寄港をして、医療機関に搬送する段取りを取る。あるいは管区の海上保安部に連絡を入れ、医師・看護師が乗った巡視船やヘリコプターに乗せて治療を行う「洋上救急」という制度もあるが、「航海中は全てがサバイバルでありその点では遠洋漁師の生きる力は逞しい」(馬上氏)
比較的高い給与水準
一方、給与水準は巷間に流布するように比較的高い。センターが入社時から入社数年目までの年収を調べたところ、350万円から600万円の間に分布している。国税庁の「令和5年分民間給与実態統計調査」によると、民間給与所得者の平均年収は460万円。平均年齢は47歳。遠洋マグロ漁業の新規就業者は20歳から35歳が多いので、年齢に比して給与水準は高い。しかも10カ月の航海中は、家賃、食費、公共料金、遊興費など生活費がかからない。ゲームの課金などで無駄遣いをしなければ、給与はまるまる貯まっていく。
馬上氏は「奨学金を借りている人は2回の航海を経れば完済できると思う。そうすれば次に進むことができる」と述べる通り、日本学生支援機構の貸与型奨学金利用者の奨学金借入総額は平均約313万円(大学生)だから、2回の航海で十分に完済できる。
ただ、ネット上に飛び交う「20代で年収1000万円を稼げる」という一獲千金には訳があるようだ。
「高齢の船長が引退した場合、海技士資格を持った20代の船員を船長に起用すれば、20代で年収1000万円を稼げるかもしれない。本来ある程度経験を積んだ30~40代がいればその人を船長に起用するが、その年代がおらず20代を起用せざるを得ない実態もある。乗船歴が短く経験の浅い若者を船長に就かせることは、どう考えても危険である」(馬上氏)
向こう5~10年後に、70代の漁労長はじめ幹部船員の多くが第一線を退くだろうが、後に続く体制の整備には働き方改革や労働環境の改善を図り定着できる職場作りが鍵になるだろう。
(文=Business Journal編集部)