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徳川家康“改名”の謎に迫る…「家」の字を使いたかった?武士の名前の漢字使用ルールとは

文=菊地浩之
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大阪城天守閣所蔵の徳川家康像。江戸時代初期の幕府御用絵師、狩野探幽が描いたものとされる。(画像はWikipediaより)

織田信長が3人に「長政」という名前を与える?

 昔、歴史雑誌の質問コーナーに「浅井長政、黒田長政、浅野長政、山田長政と同時代で同じ名前の人物が4人もいるが、『長政』というのは、そんなにいい名前なのか」という質問があった。

 山田長政はたまたまなのだが、ほかの3人には共通点がある。織田信長から「長」という字、つまり偏諱(へんき)をもらったということだ。大河ドラマならば、信長が「長政」と書いた書状を渡して「これからは長政と名乗るがよい」とか言いそうだ。

 ではなぜ、信長は3人に同じ名前を付けたのか。

 実は、信長は長政に「長」という字を諱(いみな:ファーストネーム)に使ってよいと許しただけで、どういう名前にするかは、もらった人物が勝手に考えるのだ(そんな当時の流儀を説明するのが面倒だから、大河ドラマでは信長が名付け親になってしまう)。諱はおおむね漢字二文字の訓読みなのだが、もらった字は上に付けるのがマナーだ。

 時代は下るのだが、2代将軍・徳川秀忠が、慶長14(1609)年に松平伊賀守忠晴(まつだいら・いがのかみ・ただはる)に「忠」という字を与えた一字書き出しを添付しておこう。ちなみに、「十二月廿二日」の下の文様は「花押(かおう)」というサインで、秀忠が署名したことをあらわしている。

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現物は個人蔵

 徳川家康は今川義元から偏諱を受けて松平元信と名乗ったが、その後、松平元康と改名したことはよく知られている。義元から「元信」という名前を与えられたわけではなく、「元」という字を与えられただけだから、「元」の字を使い続けてさえいれば、改名しても不敬にあたらなかったのだ。

武士の名前にも流行がある

 ではなぜ、浅井長政、黒田長政、浅野長政の3人が「長政」と名乗ったかといえば、あくまで想像でしかないのだが、「政」という字が当時の流行だったからだろう。「政」という字使った人物は、他にも井伊直政、榊原康政、池田輝政、伊達政宗などがいる。

「政」という字のほかに当時流行っていたのが、「家」だ。柴田勝家、前田利家、宇喜多秀家、吉川広家などが有名どころだ。「政」の字を使った名前は江戸時代以降も多く見られたが、「家」の字は徳川将軍家と大名の植村家の専売特許で、他家は遠慮するのが普通だった。

 ちょっと待て、植村家って誰だ?

 諱はおおむね漢字二文字で、家康の場合、通常は「康」の字を与えて、特に相手を尊重する場合のみ「家」の字を与えた。家康は家臣の中でも家老級の人物(たとえば、徳川四天王のひとり・酒井忠次の長男など)にしか「家」の字を与えていないのだが、一段低い植村家に例外的に「家」の字を与えているのだ。

 家康の祖父・清康、父・広忠が暗殺されたとき、いずれもその場に居合わせた植村栄康(よしやす。一般には氏明【うじあき】と呼ばれる)が下手人を仕留めたため、家康はその子・植村家存(いえさだ)に「家」の字を与えたのだという。植村家ではこれを名誉に感じ、代々「家」の字を名乗っている(ちなみに、「湘南乃風」のメンバー・SHOCK EYE【本名・植村家浩】はその直系の子孫に当たる)。

 話がだいぶそれたが、主君に名前から一字を与えられるのが名誉と考えられる一方、それ以外の人物にとっては、主君と同じ名前の字は遠慮して使わないという文化がはぐくまれていったのだ。

迷惑だった九代将軍・家重

 といったわけで、江戸時代のお武家様は、なるべく主君の名前と字がかぶらないようにした。しかし、主君のほうから寄せてきた場合はどうするのか?

 初代京都所司代で有名な板倉勝重。彼の子孫はみな「重○」を名乗っていたのだが、こともあろうに、9代将軍が家重と名乗ってきた。

「あちゃー」。板倉家は混乱した。そして、一族みんなが改名した。

・鳥羽藩 板倉重規(しげのり) → 板倉勝澄(かつずみ)
・泉藩  板倉重清(しげきよ) → 板倉勝清(かつきよ)
・福島藩 板倉重房(しげふさ) → 板倉勝里(かつさと)
・庭瀬藩 板倉重宇(しげのき) → 板倉昌信(しげのぶ)

 最後の庭瀬藩のほう、「昌」で「しげ」と読むの? この際、そんなことは言っていられない。結局、庭瀬藩でも昌信の子が勝興と名乗り、板倉家はみな「重○」を名乗っていたのだが、家重の出現で、それ以降、みな「勝○」を名乗ることになった。そういえば、幕末の老中は板倉勝静(かつきよ)だったなぁ。

 徳川家臣団には「重○」を名乗る家系が少なくなかったので、家重の出現は大迷惑だった。

 かの田沼意次(おきつぐ)の父も、もとは田沼重意(しげもと)と名乗っていたのだが、のちに田沼意行(もとゆき)と改名している。家重にはばかって改名したのだろう。

 ではなぜ、意行(もとゆき)の子が、意次(もとつぐ)ではなく、意次(おきつぐ)なのか。10代将軍・徳川家治には、徳川家基(いえもと)という世子がいた。おそらく田沼のほうも当初は意次(もとつぐ)と名乗っていたのだろうが、家治の世子が家基(いえもと)と名乗ったので、意次(おきつぐ)と読み方を変えたのだろう。

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長州藩第13代藩主、毛利敬親。幕末の重要人物のひとりだが、元治元(1864)年のいわゆる第1次長州征伐の結果、官位を召し上げられ、慶親(よしちか)から敬親(たかちか)に改名した。

前代未聞の「偏諱を返せ」事件

 主君に名前から一字を与えられることは名誉なので、名誉の剥奪として偏諱を取り上げた事例がある。

 幕末に長州藩が幕府と敵対し、長州征伐が行われると、長州藩主・毛利慶親(よしちか)、その世子・毛利定広(さだひろ)は偏諱を剥奪され、毛利敬親(たかちか)、毛利元徳(もとのり)と改名した。「慶」の字は12代将軍・徳川家慶から、「定」の字は13代将軍・徳川家定から与えられたものだからだ。

 明治維新が成功すると、このことが吉例になって、徳川将軍家から偏諱を与えられていた西国雄藩の大名が偏諱を返上する事例が相次いだ。

・福岡藩 黒田斉溥・慶賛(よしすけ)父子 → 黒田長溥(ながひろ)・長知
・佐賀藩 鍋島斉正・茂実(もちざね)父子 → 鍋島直正・直大(なおひろ)
・熊本藩 細川慶順(よしゆき)      → 細川韶邦(よしくに)
・薩摩藩 島津茂久            → 島津忠義
・広島藩 浅野茂長・茂勲(もちこと)父子 → 浅野長訓(ながみち)・長勲

 徳川家康は、元信、元康と名乗った後に家康と改名しているが、これを「毛利敬親の論理」と同様に捉え、今川家と訣別したためと解釈する向きが多い。

 しかし、徳川家の重臣・鳥居元忠は明らかに今川義元から偏諱をもらったと思われるが、家康は改名を指示していない。今川氏真から偏諱をもらったと思われる松平真乗(さねのり)も同様である。秀吉から偏諱をもらった徳川秀忠も、豊臣家が滅亡した後も改名していない。

 戦国時代にはまだ、名前にそこまで配慮していなかったのではなかろうか。

 家康が改名したのは、「元」の字を捨てたのではなく、「家」の字を使いたかったからではないか。

 家康の母の再婚相手・久松俊勝は、当時、久松長家(ながいえ)と名乗っていた。この御仁は部将としてはあまり有能な人物ではなかったらしい。桶狭間の合戦後、妻とともに家康に引き取られたが、パッとしなかった。家康は母親思いだから、長家から一字をもらって親子の絆を宣言し、家中に対してあまり軽んじるなよと釘を刺したのだろう。ただ、家康があまりにも出世してしまったので、長家の方が恐縮してしまい、俊勝と改名したのだろう。

 現代日本ではほとんど見られない改名。武家社会には独特のルールと多くのエピソードがあったのだ。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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