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竹中直人演じるガンコ親父・徳川斉昭…ギリギリで水戸藩主になれた男の大喧嘩と不遇の最期

文=菊地浩之
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竹中直人演じるガンコ親父・徳川斉昭…ギリギリで水戸藩主になれた男の大喧嘩と不遇の最期の画像1
徳川斉昭は、常陸水戸藩の第9代藩主であり、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。自己主張が強いガンコ者のため、12代将軍・徳川家慶に嫌われていたが、江戸庶民からは絶大な人気があり、諸大名からは一目置かれていたという。画像は京都大学付属図書館所蔵の斉昭像(Wikipediaより)。

大河ドラマ恒例のガンコ親父・水戸藩主徳川斉昭は15代将軍・徳川慶喜の実父

 NHK大河ドラマで幕末が描かれると、必ず出てくるガンコ親父。それが徳川斉昭(なりあき/『青天を衝け』では竹中直人)だ。斉昭は御三家のひとつ・水戸藩の藩主であり、15代将軍・徳川慶喜(演:草なぎ剛)の実父である。

 大河ドラマで斉昭は、幕閣とのかかわりで登場する。水戸徳川家という超名門でありながらKY(空気読めない)の権化で、自己主張が強く、ガンコでわがまま。みんなが手を焼く嫌われ者。まぁ、確かに幕府首脳から見ると、そんな人物だったに違いない。特に大奥からはひどく嫌われており、そのせいで慶喜の将軍就任に反対する者もあったという。

 ただし、江戸庶民からは絶大な人気があり、諸大名から一目置かれ、傾倒する者も少なくなかった。

徳川斉昭、藩家老と幕閣を巻き込んだ激論のすえ、“ギリギリ”で9代水戸藩主に就任

 徳川斉昭は、水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)の3男として生まれた。

 治紀には5人の男子がおり、長男の徳川斉脩(なりのぶ)は8代藩主、次男と4男は支藩の養子に出され、5男は早世。斉昭はひとり、部屋住みとして水戸藩内にとどめ置かれていた。長男の斉脩が病弱だったので、早死にした時のスペア要員として期待されての措置だったらしい。

 ところが斉脩に男子がいないので、水戸藩家老が幕府首脳と結託し、11代将軍・徳川家斉の21男の徳川恒之丞(のちの紀伊徳川斉彊[なりかつ])を養子に迎えて藩主にしようというプランが浮上する。

 11代将軍・徳川家斉には55人の子――といっても半分くらいは早世してしまったのだが――がおり、幕府首脳はかれらを名のある大名家の養子に押し込めるのに汲々としていた。一方、水戸藩は多額の借財に苦しめられていたが、家斉の8女・峰姫を斉脩の正室に迎えたことで、幕府からの助成金が倍額(毎年1万両)に増える一方、幕府から借り入れていた9万2000両の借財がチャラになった。これに味を占めた水戸藩家老の一派が、幕府から多くの助成金を引き出そうと、養子縁組みを画策したのだ。

 しかし、当然、一部の藩士が、弟・斉昭がいるのに、遠縁の将軍家から養子を迎えるのは筋違いだと猛反発。日常政務に支障を来すほど、両派の対立が激化したという。文政12(1829)年に斉脩が死去すると、両派の対立はピークに達し、一触即発の危機が――と思われたのだが、斉脩が斉昭を次期藩主とする遺言を残していたため、あっけなく斉昭が藩主に選ばれた。

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KYなガンコ親父・斉昭を、NHK大河ドラマ『青天を衝け』では竹中直人が好演しているが、竹中の見た目も斉昭にソックリなのでは?とも話題に。確かに似ているかも? (画像は、NHK大河ドラマ『青天を衝け』公式サイトより)

徳川斉昭、水戸藩主となった途端、藩政改革を着手、さらに“建白狂い”で幕政に口を出しまくる

 斉昭は藩主に就任すると、早速藩政改革を断行。人事を刷新し、優秀な人材を郡奉行に投じて農村復興を試みた。また、藩校・弘道館を設立し、精神修養と余暇のための施設として「水戸偕楽園(かいらくえん)」を造営し、領民にも開放した。

 斉昭は海防に並々ならぬ関心を持っていた。藩主就任以前の文政7(1824)年に、水戸藩領の海岸にイギリスの捕鯨船員が上陸するという事件があったからだ。前藩主・斉脩は危機感に乏しかったが、斉昭は違った。那珂湊(なかみなと)に砲台を築き、大砲を鋳造して設置。大規模な軍事教練を毎年のように行った。

 そして、斉昭は幕府首脳を批判し、建白狂いといわれるほど積極的に幕政に口を出した。

12代将軍・徳川家慶に嫌われ、徳川斉昭、突然の謹慎処分を受け強制的に水戸藩主を隠居

 これら斉昭の極端な改革は、既存勢力の反感を買うことになる。

 海防のために軍事教練は幕府から嫌疑を受ける。住職のいない寺社を廃絶したり、大砲鋳造のために寺院の梵鐘を没収したりして僧侶に恨まれる。さらに幕政に口を出して倹約を勧奨したため、大奥にも嫌われる。斉昭は女癖が悪く、有栖川宮(ありすがわのみや)から正室を迎えると、お付きの侍女を強姦して側室にしたという風評が流れ、大奥の嫌悪感は頂点に達した。

 しかし、何より12代将軍・徳川家慶(いえよし/演:吉幾三)が斉昭を激しく嫌っていた。

 家慶は神経質で疑い深い性格――なのに吉幾三!?――だったという。斉昭がみずからの才能をひけらかし、上から目線で対外問題などの意見を具申することに不満を持っていたらしい。

 かくして、天保15(1844)年5月、斉昭は幕府から謹慎処分を受け、強制的に隠居させられた。表向きの理由は、斉昭による藩政が自分勝手なもので、御驕慢(きょうまん)が募り、自己の了見で幕府制度に反することを行っていること。御三家は諸大名の模範たるべきところを、そのような配慮も見られないことに、上様(家慶)が御不興(ふきょう/気分を害する)を思し召しているというものである。

 斉昭は江戸藩邸に謹慎となり、嫡男・徳川慶篤(よしあつ/慶喜の同母兄)がわずか13歳で10代藩主に就任した。

薩摩藩主・島津斉彬や宇和島藩主・伊達宗城らの“兄貴分”となり、徳川斉昭は攘夷派・海防論の旗頭に

 斉昭は、いわば既存勢力からの反感によって謹慎に追い込まれたのだが、彼が手がけた数々の改革は農民層から支持を得ていた。藩内の農民は斉昭の無実を訴えようと、江戸に上って御三家や諸藩の江戸藩邸に嘆願を繰り返した。水戸の城下では数千人の農民が結集したこともあったという。

 こうした事態に家慶も軟化し、6カ月後の天保15年11月、斉昭は謹慎を解かれた。

 弘化3(1846)年になると、斉昭は薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)や宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)などの諸大名との意見交換を積極化していく。斉彬は斉昭の9歳年下、宗城は18歳年下で、かれらは兄貴分・先駆者の斉昭に意見を請うことが多かった。斉昭は単なるガンコ親父ではなかったのである。

 また、斉昭は異国船が頻繁に訪れる現状に鑑み、老中首座・阿部正弘(演:大谷亮平)に海防策を呈し、いずれ交易を求めて外国使節が江戸近海にやってくるだろうが、その折りには御三家や雄藩大名から「内々に」意見を求めたほうがよいと進言した。

 斉昭の危惧はやがて現実となる。

 嘉永6(1853)年6月に黒船が浦賀に来航すると、斉昭は「海防愚存」という建議を提出。大砲74門を幕府に献上し、水戸藩領から江戸に次々と運び入れた。黒船におびえていた江戸庶民は斉昭に拍手喝采を送り、大人気を博した。

 幕府も斉昭を大いに見直し、斉昭を幕府の海防参与に任じた。また、阿部正弘は過去に斉昭に進言された通り、諸藩大名等に対して「大々的に」意見を求めた。これが諸藩の幕政介入の契機となった。

権謀術数で孝明天皇ほか朝廷を攘夷派に…徳川斉昭の行動のすべてが幕府瓦解の伏線になっていく

 この頃から、斉昭の存在は本人の意思とは無関係に、幕府瓦解の引き金になっていく。

 安政4(1857)年、米国総領事・ハリスが江戸城を訪れて大統領の親書を手渡し、通商条約の締結を迫った。当時の老中首座・堀田正睦(まさよし/演:佐土井けんた)は斉昭とそりが合わず、攘夷派の旗頭・斉昭を押さえ込むには朝廷から勅許を得ることが得策だと判断した。

 しかし、相手が悪かった。斉昭の実母は公家の権中納言・外山光実(とやま・みつざね)の養女(烏丸資補[からすま・すけます]の娘)で、水戸徳川家は公家との婚姻関係もある。異母姉が左大臣・二条斉信(にじょう・なりのぶ)、同母姉が関白・鷹司政通(たかつかさ・まさみち)に嫁いでいた。朝廷工作はお手の物である。

 斉昭は先手を打って、義兄の鷹司政通を介して孝明天皇に攘夷論を吹き込み、勅許を出さぬことに成功した。幕府の政策を否定したことで朝廷の存在が一躍脚光を浴び、京都が政争の舞台となっていく。

 安政5(1858)年6月、大老・井伊直弼(演:岸谷五朗)が朝廷からの勅許を得ずに日米修好通商条約を結ぶと、斉昭は尾張徳川家などと共に江戸城に登城して抗議。これが定められた日時に登城したものでなかったため、不時登城という名目で、斉昭は謹慎を命じられ、翌安政6年8月には水戸での永蟄居となり、万延元(1860)年8月に不遇のまま歿した。

 その5カ月前、江戸登城中の井伊直弼が水戸浪士に襲撃され、暗殺された(桜田門外の変)。

 水戸浪士が直弼を襲ったのは、斉昭の食い物の恨みに発しているという説がある。

 井伊家は牛肉の味噌漬けを滋養強壮の薬と称して将軍家や御三家などに献上することを通例にしていた。ところが、井伊直弼は並みの大名とは異なり見識が高かったので、仏教的な観点から牛馬の殺生(せっしょう)を禁じ、牛肉の献上をやめてしまった。斉昭は牛肉が大好物だったので、直弼を非常に恨んでいた。これが桜田門外の変に繋がったというのだ。真偽はさておき、面白い話ではある。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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