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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

オーケストラの指揮者や楽員、なぜ“面倒な”燕尾服を着る?リハはTシャツ&短パンも

文=篠崎靖男/指揮者
オーケストラの指揮者や楽員、なぜ面倒な燕尾服を着る?リハはTシャツ&短パンもの画像1
「Getty Images」より

 上下合わせて5220円――。これを見て、ユニクロなどのカジュアル服の値段と思われたかもしれませんが、実は指揮者がコンサートで指揮をしている時に着ている燕尾服をクリーニングに出した際に請求される料金です。

 首もとの汗をたっぷり吸った蝶ネクタイも一緒に出せば、合計6000円くらい支払うことになります。正直、ちょっとしたイタリアンのコースと、料理に合う赤のグラスワインを注文できる金額です。もちろん、中に着ているシャツのクリーニング代は別の話です。

 とはいえ、高級なコートや和服の着物に比べれば、大したことはないと思われるかもしれませんが、燕尾服は指揮者にとっての仕事着で、プロ野球選手のユニフォームと同じです。もしかしたら、外野の選手よりも、演奏会の間ずっと体全体を使って指揮をしている指揮者のほうが動いているかもしれません。そこで、しょっちゅうクリーニング店に行かなくてはならないのですが、燕尾服は礼服だけに店員さんから「デラックス仕上げで」などと勧められ、高額になってしまうのです。

 僕も一度だけ、「どうせしょっちゅうクリーニングに出すから、普通のコースでいいです」と、安く上げようとしたことがありますが、やはりいつもの仕上がりとは違います。指揮者は人前に立つ仕事というだけでなく、ステージのど真ん中で立っているわけで、服装はパリッとしていなくてはなりません。もちろん、オーケストラの男性楽員も燕尾服を着ていますが、指揮者は手をブンブン振り回し、体も使っているので、本番を終えると中に着ているシャツは汗でびっしょりで、顔の汗はもろに燕尾服に飛び散っています。

 もともと西洋生まれの燕尾服は、社交界のパーティーで淑女と踊ることもできるようにつくられているので、見た目とは違って意外と軽くて動きやすい洋服です。しかも、どんなに激しく踊っても、背中の生地が長いために、まくれ上がって中に着ているシャツが見えてしまうこともないので安心です。この点は指揮台上で激しい動きをする指揮者にとっても同じですが、本来、燕尾服は指揮者のように大汗をかいて、腕をブンブン振り回すためにつくられてはいません。そのため、長く使っていると脇のところが破れてくることもあり、高級な燕尾服であっても、指揮者にとっては消耗品なのです。

 しかも、欧米でのコンサートでは、終演後にスポンサーや関係者とワインで軽く乾杯というような機会があったりして、そんな時には着替えずにそのまま出席することもあります。うっかりと赤ワインやケーキのチョコレートが燕尾服に付いてしまうこともあります。幸いにも生地の色が黒いので汚れは目立ちませんが、「これまで支払ってきたクリーニング代だけで、新しい燕尾服が買えてしまうんじゃないか?」などと考えながら、翌日、クリーニング店に行くのです。

リハーサルはTシャツに短パン、サンダルも

 そんな燕尾服ですが、いくら指揮者や男性楽員にとっての制服とはいえ、リハーサルでは、指揮者はもちろん誰も着てはいません。では、リハーサルでどんな服を着ているかといえば、なかにはおしゃれにスリーピースを着こなすダンディな男性楽員や、素敵なスーツの女性楽員もいますが、大体はカジュアルで動きやすい服装です。

 オーケストラの楽器を演奏するには、かなり体を使うので、あまり窮屈な服装では疲れてしまいます。海外のオーケストラなどは、夏場ともなるとTシャツに短パン、サンダルで、ベートーヴェンやチャイコフスキーの大曲を弾いているメンバーもいるくらいです。僕がロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者として、リハーサルを見学していた時などは、ある客演指揮者の格好はTシャツ、短パン、スニーカーでした。

 その指揮者は、リハーサルを終えるとさっさと帰っていきましたが、あとからオーケストラのドライバーから聞いた話では、「リハーサルのあと、滞在先のホテルではなく、今回連れてきた息子さんと一緒にディズニーランドまで送り届けた」とのこと。そんな破天荒なマエストロ(指揮者の敬称)であっても、やはりコンサートではパリッと燕尾服を着こなして、優雅に指揮を振るのです。

 そのようにカジュアルな服装での数日間のリハーサルを経て、コンサート当日を迎えます。本番の数時間前にホールで行われる最後のリハーサルは、日本では「ゲネラルプローベ(ドイツ語)」、通称「ゲネプロ」と呼ばれ、コンサートと同じように一度演奏をしてみる総稽古です。一方、英語圏では「ドレス・リハーサル」と呼ばれます。本番の衣装を着て、ホールでの本番さながらのリハーサルという意味なので、ゲネプロと内容は同じです。

 とはいえ、誰一人として燕尾服を着ている男性楽員も、女性の演奏会用衣装の黒いロングドレスを着ている女性楽員もいません。おそらく、オペラや演劇では、本番通りの衣装を着て最後の総稽古をするので、ドレス・リハーサルと呼んだことによるのだと思います。

 さすがに日本のオーケストラでは、リハーサルであってもTシャツ、短パンの楽員はいませんが、ゲネプロでも、ほとんどのメンバーはリハーサルと同じく楽な格好をして演奏していますし、指揮者も同じです。

 それが、ゲネプロが終わると、時には100名近くなる楽員全員が一斉に着替えるわけですから、そんな時の楽屋は混雑した更衣室状態となります。しかも、男性の場合、シャツからして、カフスボタンはもちろん、胸のボタンも一つずつ取り付け、その上にベストを着て、蝶ネクタイを締め、やっと燕尾服を着ることができます。ズボンも履き替えなくてはなりませんし、女性のロングドレスに比べて、着替えに倍以上の時間がかかります。

 女性のように化粧をする必要はありませんが、なかには大混雑を避けるためか、開演1時間前にもかかわらず、早々と燕尾服に着替えて舞台裏に置かれてあるソリストからの差し入れを食べているメンバーも多くいます。

 その一方、本番後は全員が一斉に楽屋で着替えているかといえば、多くの楽員は1分でも早く帰宅したいわけで、なかには、そのままコートを羽織って観客よりも早く電車に乗り込んでいるベテランの楽員もいます。ホールまで自家用車で来ていたら、そのまま帰ることもできるわけです。

 僕が、友人の所属しているオーケストラのコンサートをこっそりと聴きにいった終演後、「今、どこにいるの?」と友人にラインをしても、「もう電車に乗っちゃっているよ」と返ってくることもしばしばです。

 閑話休題、クリーニング代もかかるし着るのも面倒な燕尾服ですが、演奏会前に着ると毎回、「さあ、行くぞ!」という身の引き締まる気持ちになります。外科医の手術着、警察官の制服、サッカー選手のユニフォームと同じく、僕にとっては仕事着であり、自分を指揮者に変身させる“コスチューム”なのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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