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慶喜のあと徳川宗家はどうなった?…日本郵船で徳川家18代と加賀前田家18代が同僚に

文=菊地浩之
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徳川慶喜に代わり、16代当主として徳川宗家を引き継いだ徳川家達。当時まだ6歳、幼名は亀之助だった。そう、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、14代将軍・徳川家茂(演:磯村勇斗)が継嗣に望んでいた、あの亀之助だ。(画像は1920年代の写真で、Wikipediaより)

15代将軍・徳川慶喜の辞官納地後、田安徳川家から徳川宗家の16代当主が迎えられた

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第26回(9月12日放送)で、渋沢栄一(演:吉沢亮)は駿府藩(のちの静岡藩)徳川家に向かう。江戸幕府が潰れたので徳川家は滅んでしまったと誤認している方もいらっしゃるようだが、現在まで続いている。ここでは、その後の徳川家について述べていこう。

 明治維新で徳川慶喜(演:草彅剛)は辞官納地(官職を辞し、領地を返上すること)を命じられ、朝敵とされた。それにともない、慶喜は徳川将軍家(徳川宗家)の家督から退けられ、慶応4(1868)年閏4月に明治新政府から田安徳川亀之助が徳川宗家を継ぐように命じられた。田安徳川家は御三卿のひとつで、亀之助はその当主である。かつて14代将軍・徳川家茂(演:磯村勇斗)が上洛する際、「自分にもしものことがあったら、後継者は田安の亀之助にしてほしい」と遺命した、その亀之助である。

 亀之助は文久3(1863)年7月に田安徳川慶頼(よしより)の3男として江戸城で生まれた。母は側室高井氏で、実は彼女は御家人・津田氏の娘で田安家用人の高井家の養女になっていたらしい。ゆえに亀之助の母方の従姉妹には津田塾大学を開いた津田梅子がおり、父方の伯父に越前福井藩主を継いだ松平慶永(春嶽/演:要潤)がいる。

 亀之助は5歳で徳川宗家の家督を継ぎ、徳川家達(いえさと)と改名。慶喜が辞官納地したが、徳川宗家は存続を許され、駿河府中藩70万石の一大名家として再出発することになった(府中の読みが不忠に通じることから、付近の賤機[しずはた]山にちなんで静岡と改名した)。

 江戸城から駿府城に都落ちさせられたのだが、家達は江戸城から出たことがない5歳の少年である。道中、楽しくて仕方がなかったらしい。輿(こし)から外を覗いては、「あれは何? これは何?」としきりに尋ねたという。

徳川宗家16代・徳川家達の赤坂の邸宅周辺には、天璋院篤姫、和宮、その他歴代の“お姑さん”たちが大集結

 中高生時代の歴史の教科書を思い出してほしいのだが、1869年6月に版籍奉還が実施され、藩主は版(領地)・籍(人民)を朝廷に返上し、知藩事に任じられた。次いで1871年7月に廃藩置県が断行され、旧藩主は知藩事を解任され、東京への移住を命じられた(廃藩置県に反対する旧藩士たちが、旧藩主を擁して反乱を起こすことを防ぎ、いわば藩主を人質にするものであった)。

 これにともない、家達も静岡藩主から静岡知藩事となり、知藩事解任とともに東京へ転居した。当時、東京は大名屋敷も用済みとなり、旗本も静岡に移転したため、桑畑が散乱する荒れ地になっていたとも伝えられる。徳川宗家は肥後人吉藩の赤坂邸を購入して、そこに転居した。

 敷地内の別邸には、歴代のお姑さんが集まってきた。天璋院篤姫(13代将軍・家定の妻/演:上白石萌音)、本寿院(13代将軍・家定の母)、実成院(じつじょういん/14代将軍・家茂の母)。和宮(14代将軍・家茂の妻/演:深川麻衣)は京都に帰っていたが、明治天皇一家が東京に移り住んできたので、お姑さん結集とほぼ同時期に東京麻布に引っ越してきた。いやいや大変なもんである。

 1877年に家達は14歳で英国に留学。ロンドン郊外のイートン・カレッジを卒業。ケンブリッジ大学に入学するところで明治天皇に命じられ、1882年に帰朝。1884年に公爵に列した。

 1890年、第1回帝国議会の開催にあたり、家達は27歳で貴族院議員に選ばれ、1903年に30歳で貴族院議長に選任。以来、1933年までおよそ30年にわたってその任にあった。

 名門家系を継いだというだけでなく、気が大きく、明るく円満な性格で、人望が厚かった。1914年、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が総辞職すると、家達に次期首相として組閣するように内命が下ったが、反幕勢力がまだ羽振りを利かせていた時期だったこともあり、固辞したという(牧野伸顕[大久保利通の次男]ら政府の顕官は、明治時代の末頃まで徳川家の巻き返しがあるものと本気で心配していたらしい)。

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徳川宗家17代となった徳川家正。父・家達の逝去を受けて公爵および貴族院議員となり、1946年には最後の貴族院議長に就任、貴族院と華族制度の終焉を見届けた。(画像は貴族院議長在任時の写真で、Wikipediaより)

徳川宗家17代・家正の“お相手”は、13代将軍・家定の妻である天璋院篤姫がみつくろった?

 話が前後するが、1882年12月、家達は19歳で近衛忠房の長女・泰子(ひろこ)と結婚した。前述したように、天障院篤姫が生存しており、奥向きを仕切っていた。泰子を幼いうちから引き取って、天障院が自ら養育に当たった。そして、泰子が妊娠したと聞くと、「今度、男子が生まれたら、是非島津家から嫁を貰ってほしい」と遺言し、1883年11月に死去した。いうまでもなく、天璋院の実家が島津家だったからだ。

 翌1884年3月に家達の嫡男・徳川家正(いえまさ)が生まれ、その翌年9月に島津家の当主・忠義に正子(なおこ)が生まれたため、天障院の遺言にしたがって家正と正子の婚約が整えられたという。

 徳川宗家17代・徳川家正は学習院に初等科から入り、高等科を経て東京帝国大学法科大学政治学科(東京大学法学部)へ進んだ。成績優秀で特待生だったという。中等科卒業式の来賓・大隈重信が「外交官というものは男子一生の仕事である」というような演説を聴いて感銘を受け、外交官への道に進んだ。

 1909年に外務省に入省、ロンドン赴任を皮切りに、北京、オーストラリア駐在を経て、1929年にカナダ公使、1935年にトルコ大使に着任。1937年に退官。1940年に貴族院議員に選ばれ、1946年に貴族院議長に選任された。

 前述の通り、1909年に島津忠義の九女・正子と結婚。1912年に長男・徳川家英(いえひで)をもうけ、以下、豊子、敏子、順子(ゆきこ)と一男三女にめぐまれた。

徳川宗家17代・家正の嫡男・家英、東北帝国大学に進学するも、敗血症にて25歳で急死す

 父・家正も線の細い性格だったというが、家英もシャープな性格で、当時でいう“癇の強い”ところがあり、気難しかったという。その反面、声楽や絵画に秀で、自動車運転やスケートを得意とする才能豊かな青年だった。

 家英は電気や機械いじりを好んだが、徳川宗家を継ぐ身であるから経済・法科のいずれかを修めるように説得されたらしく、東北帝国大学法文学部経済学科に進んだ。

 そして在学中、家英は敗血症にかかり、25歳の若さで急死してしまう。

 家正には家英のほかに男子がいなかった。そこで、松平慶永(演:要潤)の孫・松平忠永を養子に迎えた。ところが、忠永は海軍軍人として飛行機で飛ぶ夢が捨てがたく、とても徳川宗家の家督を継ぐ責務が果たせないといって、結局、養子縁組は破談になってしまう。

 1945年頃、家正は外孫を養子にすべく、会津松平家に嫁いでいた長女・豊子に対して、「どうだね、(豊子の息子である)恒忠か恒孝(つねなり)か、ひとり養子にくれないかね」と打診した。すると、豊子は「だめヨ。松平家だって2人は必要でしょう? だからもし3人目ができたらネ」と不用意に答えたという。豊子に3男の恒和が生まれると、家正は「恒孝を養子にどうだろう」と尋ね、豊子は「本人がよければネ」と答えたらしい。

 早速、家正は恒孝を相撲観戦に連れて行ったり、御馳走したりして懐柔した。

 一方、恒孝は家では兄・恒忠に頭が上がらず、弟・恒和が生まれたばかりで周囲に可愛がられていたので、さっさと養子に行く気になったらしい。祖母がこしらえた夜具一式を持ち、いとも簡単に徳川邸に引っ越して、養子になってしまった。

慶喜のあと徳川宗家はどうなった?…日本郵船で徳川家18代と加賀前田家18代が同僚にの画像1
江戸時代には征夷大将軍を世襲した、“徳川将軍家”たる「徳川宗家」。明治以降は基本的に、田安徳川家の第7代当主、徳川家達の系統が継いできた。徳川宗家第19代当主・家広氏は、1965年生まれの56歳である。

徳川宗家18代・徳川恒孝は、松平容保の曾孫、日本郵船時代は加賀藩前田家18代当主と同僚の仲

 東京銀行(現・三菱UFJ銀行)会長・松平一郎の次男に生まれた徳川恒孝は、こうして外祖父・徳川家正の養子となり、徳川宗家18代となった。実の祖父は宮内大臣・松平恒雄、曾祖父は会津松平家の松平容保(かたもり)である。

 英国留学を経て、学習院大学政経学部を卒業し、日本郵船に入社。さすがに徳川将軍家の末裔だけあって、学習院卒としては異例の出世を遂げ、2001年に副社長に昇進。ただし、翌2002年に顧問に退いた。2003年に財団法人「徳川記念財団」を設立して理事長に就任した。

 日本郵船時代は、加賀100万石前田家の嫡流・前田利祐と同僚で、上司は「徳川、前田を部下に持つ男は太閤秀吉以来だろう」といってご満悦だったとか。

 恒孝の長男・徳川家広(いえひろ)は慶応義塾大学卒業後、コロンビア大学などに留学。翻訳家、著述家として活躍、徳川宗家19代を継いだ。子どもの頃はNHKの人形劇『真田十勇士』を見て真田幸村のファンになり、成人後はベトナム人女性と結婚。徳川宗家の嫡男には少々似つかわしくない人生を送っている。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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