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「偉人たちの診察室」第16回・徳川慶喜

精神科医が語る、徳川慶喜の“逃亡癖”と依存性パーソナリティ障害…長州征伐、大坂城逃亡

文=岩波 明/精神科医
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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。写真は大政奉還直前の1866(慶応2)年頃に撮影されたもの。このあと慶喜は朝敵となり、謹慎。政治の表舞台から去った。当時まだ満30歳。76歳での逝去まで約40年間、“余生”のほうが長かったのだ。(画像はWikipediaより)

 江戸幕府の15代将軍であった徳川慶喜は、評価が定まらない人物である。慶喜は十代の頃からその能力が評価され、“神君・家康”の再来とまで讃えられた。けれどもあらためて振り返ってみると、慶喜が特に傑出していたというよりも、当時の徳川家には、幕末の難局において政局を運営可能な「健康」な男性の後継者がいなかったというのが実情のようである。

 13代将軍であった徳川家定は小児期から病弱であり、将軍らしい働きができないまま35歳で死去した。生来の知的障害であったという話も伝えられている。14代将軍となった徳川家茂は、13代将軍家定の従弟にあたる。

 家茂は前将軍ともっとも血筋が近いということで、13歳で将軍に就任した。その後公武合体運動により天皇の妹である和宮を妻に迎えたが、21歳で遠征先の大坂城で死去した。

 実は徳川家の将軍は、初代の家康、2代の秀忠を除けば、将軍としてそれなりの存在感のあったのは、8代将軍の吉宗以外には見当たらないように思える。

 英知を称えられた慶喜は幕政改革に取り組んだが、薩摩、長州の攻勢に対して、敵前逃亡としかいえない行動を起こしてしまう。戊辰戦争において、維新軍に対峙した幕府軍は大坂城に陣取っていたが、慶喜は重臣数人を連れて、海路により秘密裡に江戸に帰ってしまったのだった。

 江戸に戻った慶喜は戦意を喪失し、小栗上野介らの主戦論を退けてみずから江戸城を出て謹慎生活に入った。どうして慶喜は江戸幕府を見捨てるような行動をとったのであろうか。

 以下の記述は、『徳川慶喜』(家近良樹著、吉川弘文館)、『運命の将軍 徳川慶喜』(星亮一著、さくら舎)、『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著、平凡社)などを参考にした。 

水戸徳川家の七男坊、ハイカラ好みで豚肉好き、ざっくばらんで格式を重んじなかった徳川慶喜

 徳川慶喜は天保8(1837)年、江戸・小石川にあった水戸藩邸において、藩主である徳川斉昭の七男として生まれた。母は有栖川宮織仁親王の王女の吉子である。母の姉は、第12第将軍・家慶の正室であった。いうまでもなく水戸藩は、徳川御三家のひとつである。

 関ヶ原の戦いの2年後の慶長7(1602)年に、徳川家康の五男・松平信吉が水戸城主となった。だが翌年信吉は、21歳の若さで病死した。その後は家康の十男で当時2歳の徳川頼宣が引き継いだが、間もなく駿府藩に転封となり、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳であった徳川頼房がその後を継いでいる。これが、「水戸徳川家」の始まりである。水戸徳川家には、尊王の精神に富んだ水戸学が伝統として受け継がれていた。

 慶喜の父である水戸藩の藩主斉昭は、「裂公」と呼ばれた強硬な攘夷論者であった。一時は幕政にも参画したが、井伊直弼との政争に敗れて江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、政治の中枢から排除されている。

 慶喜は水戸で育ち、藩校である弘道館で会沢正志斎らに学問や武術を教授された。武術のなかでは、手裏剣の名手であったという。弘化4(1847)年、慶喜は老中であった阿部正弘の意向により、徳川御三卿のひとつである一橋家の跡取りとして迎えられた。

 慶喜はハイカラ好みで、洋装、洋食を好んだ。特に豚肉が好物だったために、豚一様(ぶたいちさま)と呼ばれていた。またざっくばらんな性格で、格式を重んじない傾向が強かった。

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