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「偉人たちの診察室」第14回・孝明天皇

精神科医が語る“孝明天皇・毒殺説”…天然痘による病死?実際は岩倉具視がヒ素を盛った?

文=岩波 明/精神科医
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日本の第121代天皇・孝明天皇。仁孝天皇の第4皇子で、明治天皇の父親。幕末の混乱期を生きた孝明天皇は徹底的な攘夷派で、開国は“神国”を汚すものとして、開国派の進言に耳を貸そうとしなかった。(画像はWikipediaより)

 幕末の重要な登場人物であるにもかかわらず、孝明天皇の知名度はあまり高くはないようである。

『歴代天皇総覧』(笠原英彦、中公新書)などによれば、孝明天皇は第121代の天皇で、1831(天保2)年7月22日に生まれ、1867(慶応2)年1月30日に死去している。孝明天皇は先代の仁孝天皇の第4皇子で、明治天皇の父親である。1846(弘化3)年2月、仁孝天皇の崩御を受けて即位をし、亡くなったときは、まだ30代の若さであった。

 孝明天皇は学問好きで、即位の翌年には先代の遺志である学習所を完成させた。ここには、次第に攘夷派のリーダーが集まるようになった。

 孝明天皇の生きた時代は、幕末の混乱期である。それまでは政治の蚊帳の外に置かれていた朝廷が、にわかに政治の中心として登場した。江戸幕府は時代の大きな変化に対応することができず、これに代わる政治の中心的な存在として朝廷が脚光を浴びるようになったのだった。けれども朝廷にも天皇にも、その自覚は十分ではなかった。

 1853(嘉永6)年7月、黒船を引き連れたペリーが浦賀に来航し、翌年には日米和親条約が締結された。1854(嘉永7)年には、内裏の炎上、大地震(後に「安政の大地震」を呼ばれた)と大事件が続発し、1855年1月(嘉永7年11月)に元号を安政と改元している。

 さらに米国との間に日米修好通商条約が締結されたが、攘夷か開国か、国論は二分されて激しい抗争が続いた。幕府も朝廷も、個々の諸藩においても激論が繰り返され、武力闘争にも至っている。海外との関係以外にも、尊王討幕か佐幕かと議論は入り乱れ、テロ事件も横行した。

 孝明天皇は徹底的な攘夷派で、開国は“神国”を汚すものとして、開国派の進言に耳を貸そうとしなかった。幕府が締結した日米修好通商条約にも大変な怒りを示し、即時鎖国に戻すことを強く主張して、戦争も辞さないとまで言い切った。

 この間にも時代は動き、幕府の大老に就任した井伊直弼が1858(安政5)年に反対派の志士らを大量に処刑した「安政の大獄」が勃発する。しかしその後は、井伊直弼自身が暗殺者の刃に倒れてしまう(1860[安政7]年、桜田門外の変)。

 またこの時期、朝廷の伝統的権威と幕府を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする公武合体運動がさかんとなり、孝明天皇もこれを推し進めた。天皇には討幕の考えはまったくなく、幕府と一体になり、鎖国をすることを望んでいた。

 こうした流れのなかで、孝明天皇の妹・和宮と将軍家茂の結婚が推し進められ、1862年に婚姻が成立した。和宮には婚約者があったため、当初反対していた孝明天皇は、鎖国と攘夷実行の条件を付けて了承した。

 1865(慶応元)年、攘夷運動の最大の大もとは孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求し、天皇も条約の勅許を出すことになった。一方で、この年に西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。

 この攘夷と開国で揺れる世情のなか、孝明天皇は突然死去する。天皇が健在であったならば、時代が討幕に大きく動くことはなく、天皇と将軍慶喜が手を結び、徳川幕府が形を変えて存続していたかもしれない。

孝明天皇は35歳で崩御…“公式見解”では天然痘による病死とされるが、疑問も残る

 1867(慶応2)年12月、孝明天皇は在位21年にして崩御した。満35歳であった。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も唱えられている。なぜならこの天皇の死は、討幕派に大きなはずみをつける歴史上の転換点となったからだ。

 同年12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加したため、翌12月12日に発熱した。このため、天皇の主治医であった高階経由が診察して投薬を行ったが、13日になっても病状が好転しなかった。このため、他の医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

 12月16日、高階経由らが改めて診察した結果、天然痘に罹患している可能性が指摘された。このため天然痘の治療経験が豊富な小児科医を召集して診察に参加させた結果、さらに天然痘の疑いは強まり、翌17日に天皇が天然痘にかかったことを正式に発表した。

 天然痘は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症であり、当時は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)とも呼ばれた。このウイルスはヒトに対して強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率は平均で約20%から50%と高く、治癒しても瘢痕を残すことが多い。

 天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもその存在が確認されている。一般的な経過としては、40度前後の高熱、頭痛などの初期症状がみられたのちに、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。

 発症して7〜9日目に再度40度以上の高熱になる。同時期に発疹が化膿して膿疱となるが、この病変は呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現れ、呼吸困難等を併発し、死に至ることもある。一方で、2〜3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かうことも多い。

 日本においては、渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初の流行がみられたと考えられている。『日本書紀』にも、天然痘と思われる記載がある。735年から738年にかけては、西日本から畿内にかけて天然痘は大流行し、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。

 その後も天然痘は何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石らもこの疾患に罹患し、顔にあばたを残している。

 さて12月17日以降、天皇の拝診資格を持つ医師らにより、24時間体制での治療が始まり、病状はいったんは回復したように思われた。当時の記録には、「昨日からお召し上がり物も相当あり、お通じもよろしい」などと記載されている。

 ところが12月25日になって容態が急変した。下痢がひんぱんになり吐き気が強く、高熱が出た。意識がもうろうとして顔面に紫色の斑点がみられ、下血も持続しやがて出血は全身に及び、この日の夜に、孝明天皇は死去した。天皇の崩御の事実は秘され、公にされたのは12月29日になってからのことだった。

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幕末・明治前期の政治家で、明治維新の立役者のひとりである岩倉具視。孝明天皇の最期の病状から毒殺の可能性があるとして、倒幕の急先鋒だった岩倉が暗殺の主犯と考えられた。(写真はWikipediaより)

「孝明天皇は岩倉具視によってヒ素で毒殺された」なる根強く残る“暗殺説”

 生前の孝明天皇は壮健で痔疾患以外に持病はなく、周囲の人たちにとってこのような急激な病気の発症と死去はまったくの驚きだった。さらに全身状態が回復しつつあるなかでの突然の死は周囲に疑惑を抱かせることとなり、当時より毒殺の噂は絶えなかった。

 明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルはタブーとなったが、孝明天皇の暗殺の噂は囁かれ続けていた。暗殺の主犯とされたのは、明治維新の立役者のひとりである公家の岩倉具視だった。

 岩倉が疑われたのは、朝廷のなかにおいて倒幕の急先鋒だったためである。これに対して孝明天皇は、幕府の打倒はまったく考えておらず、公武合体の推進者だった。岩倉は下級公家の出身であったが、幕末維新において朝廷側の中心人物として動き、新政府でも要職を占めている。暗殺の件については、強く否定している。

 1940年7月には、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官である堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という発表を行った。

 戦後になると、歴史学者である禰津正志(ねず・まさし)は、天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して崩御したことから、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定し、やはり岩倉首謀説を唱えた。

 一方、毒殺説に対する反論もみられている。1989年と1990年に、当時名城大学商学部教授であった原口清が、「孝明天皇の死因について」「孝明天皇は毒殺されたのか」というタイトルの論文を発表した。

 この論文のなかでは、これまでの毒殺説で示されていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないと述べ、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したのだと結論している。

 孝明天皇毒殺説はさらにスケールの大きい陰謀説に発展し、睦仁親王暗殺説(睦仁は明治天皇の諱)も唱えられている。つまり明治天皇は睦仁親王に成り代わった別人(大室寅之祐なる人物)なのだという説である。大室は南朝の末裔であるとされたが、そこに納得のいく根拠は示されていない。

 歴史作家の中村彰彦は、孝明天皇の死について、過去の文献を網羅して詳細な検討を行っている(中村彰彦『幕末維新史の定説を斬る』講談社文庫)。このなかで中村は、病死説は元来『孝明天皇記』など公式の記録に記載されているものであったことを指摘し、前述の原口の論文など多くの資料を再検討している。

 この結果、天皇は天然痘の発症後、この病気の一般的な症状経過を示した後に順調に回復し、12月24日の午後には旺盛な食欲を示すまで回復している。ところが25日に容態は急変し、下痢と嘔吐に加えて全身から出血がみられて死に至った。これらのことから中村は、やはり孝明天皇はヒ素などの毒物により殺害された可能性が高いことを指摘している。実際、急変した天皇のその後の経過は、急性ヒ素中毒による経過とほぼ一致しているという。

 ヒ素は古来より知られている毒物であり、農薬などに用いられたが、医薬品として使用されたこともあった。その一方で、入手が容易であり、海外では遺産相続のための殺人などに利用されることも多かった。ルネサンス時代にはローマ教皇アレクサンデル6世と息子チェーザレ・ボルジアは、ヒ素入りのワインによって、次々と政敵を殺害した。

 ヒ素を服用した際には、吐き気、嘔吐、下痢、腹痛などがみられ、ショック状態となり多臓器不全により死亡することもある。最近の事件としては、「和歌山毒物カレー事件」においてヒ素が毒物として用いられた。この事件では、地区の夏祭りで提供されたカレーライスにヒ素が混入され、67人が急性ヒ素中毒になり、うち4人が死亡している。

 孝明天皇の毒殺の首謀者と考えられるのは岩倉であるが、当時の岩倉は御所からは遠ざけられていたため、直接手を下した犯人は岩倉の同士であった宮廷内の「討幕派」の女官であったと推察されている。

公家である岩倉具視が、“主上殺し”という大罪を犯すのか

 あらためて検討を行ってみても、孝明天皇の毒殺説は、状況証拠的に“リーズナブル”である。ただし前述したように主犯とされた岩倉は蟄居中であり、完全なアリバイがあった。そうなると宮廷に共犯者がいたことになるが、特定はされていない。

 孝明天皇の死をきっかけにして時代は大きく動き、倒幕運動は激しくなり、戊辰戦争から新政府樹立へと突き進んだ。天皇の死によって利益を得たのは、明らかに長州・薩摩の志士たちと岩倉ら、討幕派の公家であった。

 しかし一方で、岩倉のような公家が主上殺しという大罪を犯すのであろうかという疑問も残る。この点については、回を改めてまた検討したい。

(文=岩波 明/精神科医)/p>

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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