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最後の将軍・徳川慶喜の“余生”…狩猟と写真に没頭、渋沢栄一に支えられ明治天皇と酒宴

文=菊地浩之
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最後の将軍・徳川慶喜の“余生”…狩猟と写真に没頭、渋沢栄一に支えられ明治天皇と酒宴の画像1
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。本来、慶喜は渋沢栄一の3歳年上のはずなのだが、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で慶喜を演じる草彅剛が少々高齢過ぎて、栄一を演じる吉沢亮とは親子ほど年が離れているようにも……。写真は大政奉還直前の1866(慶応2)年頃に撮影されたという慶喜、当時29歳。(画像はWikipediaより)

徳川慶喜、30歳で大政奉還…大正2年に死去するまで、46年の長き“隠居生活”

 少し前の話となってしまうが、NHK大河ドラマ『青天を衝け』第29回(10月3日放送)で、渋沢栄一(演:吉沢亮)は旧主の徳川慶喜(よしのぶ/演:草彅剛)を訪れ、趣味を満喫する慶喜の姿に驚く。

 徳川慶喜は天保8年9月(1837年10月)に生まれ、大正2(1913)年11月に死去した。76年の生涯だった。大政奉還したのが慶応3年10月(1867年11月)だったから、満30歳。その後、朝敵となり、謹慎。政治の表舞台から去った。その後の46年もの間、長い長い余生を慶喜はどう過ごしたのだろうか。

徳川宗家に従属せざるを得ない、徳川慶喜の屈折した思い…徳川家達には完全に見下され

 慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いで慶喜は大坂城から江戸城に逃亡。翌2月には寛永寺で謹慎。4月に実家の水戸藩に戻った。ところが、水戸藩は幕末から明治にかけて、血で血を洗う熾烈な内部抗争に明け暮れ、そんなところに前将軍を置いていては政治的な動きを招きかねないとの判断から、7月に静岡に移された。

 翌1869年5月に箱館五稜郭に立て籠もった旧幕軍が降伏。戊辰戦争が終わったことで、9月に慶喜は謹慎を解かれた。11月に正室・美賀君(演:川栄李奈)を静岡に呼び寄せて同居を始める。

 1871年7月に廃藩置県で徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと)が東京移住を命じられたが、勝海舟の判断で、慶喜は引き続き静岡に留め置かれた。

 慶喜は家達に家督を譲った隠居で、経済的には家達(徳川宗家)に全面的に依存していた。経済的に余裕がなく、他家からいただき物があっても御返しができず、ただ頭を下げて御礼するしかなかった。

 そこで、陰で慶喜一家の経済を支えていたのが、渋沢栄一だという。執事が、慶喜の子どもや孫たちに「渋沢のご恩をお忘れになってはいけません」と言い含めたというが――やっぱり元家来だから呼び捨てなの?

 さらに、朝敵になった慶喜は、心情的にも宗家に完全に従属せざるを得ない立場にあった。

 一方の家達は慶喜を完全に見下しており、「慶喜さんは徳川を滅ぼした方、私は徳川家を再興した人間」と発言していた。大名家の例会に慶喜が参加し、床の間を背にして正座していると、遅れてやってきた家達が「おや、私の坐るところがない」と言い、慶喜は自ら隣の席に移った。それ以来、慶喜と家達を一緒に招待することはなくなったという(遠藤幸威著 『女聞き書き 徳川慶喜残照』[朝日文庫]より)。

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徳川慶喜の正室・一条美賀子。当初、慶喜は別の娘との婚約を控えていたが破談になり、その“代役”として美賀君が嫁いだ……という背景もあり、結婚当初は夫婦仲もうまくいっていなかったようだ。画像は、東京都港区立郷土資料館蔵の美賀子とされる写真。(Wikipediaより)

徳川慶喜、35歳…大名並みの官位に復し、趣味の狩猟に明け暮れ、大正天皇と意気投合

 慶喜は鳥羽・伏見の戦いで朝敵とされ官位を剥奪されていたのだが、1872年1月に従四位(じゅしい)に叙された。会津藩主・松平容保(かたもり)、老中・板倉勝静(かつきよ)らも同時期に官位を与えられ、いわば旧幕軍が公的に復権を許された。慶喜はそれまで狩りに行くことも禁じられていたが、これを機に趣味の世界に没頭していく。

 慶喜はもともと体を動かすことが好きなアウトドア派だったのだが、長い謹慎生活で自重を余儀なくされた。しかし、従四位に復帰すると自由に外出し、趣味を謳歌しはじめる。

 なかでも好きだったのが、西洋銃を使った狩猟だった。慶喜はなんでも徹底的にきわめる性格で、狩猟場は近村から遠方にまで及び、日が落ちるまで帰宅しなかったという。1881年に再度の留学を終えた異母弟・徳川昭武(あきたけ/演:板垣李光人)が帰国し、翌1882年に慶喜邸を訪れると、2人は意気投合して安倍川や金谷に狩猟に出かけた。

 また、慶喜は皇太子時代の大正天皇と親しく、ともに狩猟を楽しんだ。大正天皇は慶喜の持つ西洋銃をお気に召して「是非、譲ってくれ」と所望されたのだが、慶喜のお気に入りだったため、どこかで似たものを購入して献上したという。慶喜が「剛情」といわれるゆえんである。

徳川慶喜、弟・昭武の影響で写真撮影に没頭す…静岡の風光明媚な場所をレンズに

 狩猟は元気なうちは続けていた趣味であるが、それ以外の趣味はある程度のレベルまで行くとやめてしまい、次の趣味を探すことが多かったようだ。そのこともあって、慶喜の趣味は、狩猟、鷹狩り、囲碁、投網(とあみ)、鵜飼い、謡(うたい)、能、小鼓(こつづみ)、洋画、刺繍、将棋などなどと幅広い。

 狩猟以外で有名な趣味に、写真撮影がある。

 弟・昭武の影響で1893年頃から写真撮影にのめり込み、「写真に関しては、夜を徹することもしばしばで、にわかに上達し、静岡の風光明媚なところはおおむね(慶喜)公のレンズにおさめられた。人物の撮影も深く究められ、公の手で作られた写真は、同族にわけあたえられたものも少なくない」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』[平凡社]より)。慶喜の曾孫・徳川慶朝(よしとも)はカメラマンで、実家の押し入れに眠っていた慶喜撮影による大量の写真を発見し、『将軍が撮った明治 徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社)として出版している。

 また、投網とは、海や川に漁網を投げ入れて魚を獲る漁法である。投網の時、慶喜は人力車を使って体力を温存したうえで漁場に行くほど徹底していた。慶喜の子どもたちも父に似て器用だったが、末男の精(くわし)は投網がうまく、それを見た漁師から「ウチの養子に来てほしい」と言われるほどの腕前だった。しかし、精は漁師のウチの養子に行くことなく、勝海舟の家に婿養子となった。

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感動的だった、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の慶喜と美賀君の再会シーン。美賀君の溢れ出る包容力にネットでは感動の声が続々! でもそれもそのはず、本当は美賀君は2歳年上の姉さん女房なのです。……見えないですね。(画像は同番組公式Instagramより)

徳川慶喜、60歳…美賀君亡き後、東京に移住す…勝海舟の尽力で明治天皇と酒盛り

 先述した通り、慶喜は美賀君を呼び寄せて生活をともにしていた。美賀君は釣りが好きだったらしく、慶喜とともに清水湊(現在の静岡県静岡市清水区)を数度訪れるなど、仲睦まじく暮らしていた。ところが、1891年に美賀君に乳ガンが発見され、高松凌雲(演:細田善彦)らが手術を行った。容態は好転せず、1894年5月に美賀君は東京に移って治療を続けたが、同年7月に死去した。享年60歳(満年齢では59歳)。大河で演じる川栄李奈(1995年生まれ)は草彅剛(1974年生まれ)より21歳年下で、夫婦というより娘みたいなものなのだが、実際は美賀君のほうが2歳年上だったのだ。

 晩年の美賀君が東京で治療を続けたことが念頭にあったのだろうか、慶喜は1897年に満60歳となり、11月に東京・巣鴨に移住する。

 東京に移住したことで、皇居への距離が心理的にも近くなった。まず、母方の親戚である有栖川宮家との親交が深まり、翌1898年3月に慶喜は明治天皇・皇后に拝謁。酒宴に及んだ。

 一説には、慶喜が帰った後、明治天皇が伊藤博文に「伊藤、俺も今日でやっと今までの罪ほろぼしができたよ。慶喜の天下をとってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮き世のことで仕方がないと言って帰った」と語ったと伝えられる。

 拝謁実現には勝海舟が尽力し、勝はその翌年に死去した。

徳川慶喜、65歳…渋沢栄一の尽力で公爵に列し、完全復活す…明治天皇も喜ぶ

 巣鴨邸の前に日本鉄道の豊島線(現・JR東日本の山手線)が敷かれることになり、喧噪を恐れた慶喜は1901年12月に東京市小石川区小日向(こひなた)第六天町(現在の東京都文京区春日)に移住した。慶喜は新しもの好きで、水道・ガス・電気をかなり早い時期に引き、自ら考案した水洗トイレを使っていたという。

 孫の榊原喜佐子(さかきばら・きさこ/旧姓・徳川)によると、「第六天で一番大切なお祝い日は、御授爵記念日である。祖父慶喜公は明治三十五年六月三日に侯爵を授与され、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を創立された。この日を祈念して毎年『御授爵の宴』が開かれたのだ」(榊原喜佐子著『徳川慶喜家の子ども部屋』[角川文庫])という。

 この逸話が示す通り、慶喜は1902年6月に公爵に列し、名誉復帰したことを何よりも喜んでいた。明治天皇も「よかった。よかった」と安堵の声を側近に漏らしたという。

 勝海舟死去の後、公爵授与に尽力したのは渋沢栄一だという。持つべき者はよき家臣である。そして、渋沢が慶喜の汚名を雪(そそ)ぐべく企図していた『徳川慶喜公伝』の編纂にも協力するようになった。渋沢らが慶喜を囲んでヒヤリングする場が、大河ドラマでも描かれるのかもしれない。

 1913年11月、慶喜は風邪をこじらせ、肺炎で死去した。享年77歳(満年齢では76歳)。

「将軍職を返上した自分は、徳川家代々の菩提寺寛永寺墓地には入らぬ、この家は今後仏式をやめて神式とする。自分の墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものとする」(『徳川慶喜家の子ども部屋』)と遺命。谷中墓地に葬られた。

趣味に明け暮れた慶喜の人生の真意…明治政府の不満分子に担がれる危険性を排除

 朝敵となって謹慎になった後、慶喜にはやることがなかった(維新後の慶喜の一番の仕事は子作りだったという皮肉もあるが)。

 そして、政治的には新政府の不満分子に担がれる危険性がたぶんにあった。そこで、趣味に没頭して世俗を離れ、政治にかかわらない姿勢を誇示することが重要だった。慶喜は旧幕臣の実業家・渋沢栄一には会見することがあっても、維新後も役人を続けた永井尚志(なおゆき/演:中村靖日)との会見は断っていた(永井家には、寂しいものを感じたと漏らした尚志の言葉が伝えられているという/家近良樹著『その後の慶喜――大正まで生きた将軍』[ちくま文庫]より)。

 ちなみに、東京市長に推された慶喜が「ナニ、ワシに江戸の町奉行になれと申すか?」と答えたという面白い話が伝わっているが、これは家達を東京市長に推すという噂があり、そこから派生したウソのようだ。

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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