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松岡修造の兄、東宝社長に就任……“宝塚をつくった曽祖父”小林一三と松岡家の稀代の歴史

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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元プロテニスプレーヤー・松岡修造はリアル“華麗なる一族”。阪急東宝グループの御曹司でありながらテニスプレイヤーの道を選んだ彼を、人は“反骨の御曹司”と呼ぶ……。(画像は東宝公式サイトより)

 3月22日、東宝の次期社長に松岡宏泰が就任すると報道された。元プロテニスプレーヤー・松岡修造の実兄である。

 松岡修造は阪急電鉄を創業した小林一三(いちぞう)の曾孫としても有名で、阪急グループ内の企業である東宝は松岡家が社長を世襲しており、宏泰の社長就任は既定路線といってもいい。映画会社の東宝が、なぜ電鉄会社の阪急電鉄と関係があるのか。さらにいえば、宝塚歌劇団もそのグループに属するというが、どういうことなのか。ここでは阪急グループの成り立ちについて触れていこう。

松岡宏泰・松岡修造兄弟の“おじいちゃんのパパ”小林一三は、稀代のアイデアマン

 松岡宏泰・松岡修造兄弟の曾祖父・小林一三(1873~1957年)は現在の山梨県韮崎(にらさき)市の旧家に生まれた(名前の由来は、一月三日生まれだから)。慶応義塾を卒業し、かねてより熱望していた小説家になるために都新聞(現 東京新聞)への入社を希望したが失敗。1893年に三井銀行(現 三井住友銀行)に渋々入行した。しかし、入社時期になっても一三はいっこうに出社しようとしなかった。熱海温泉で湯治し、女性に入れ込んで帰京せず、帰京しても地方新聞に小説を連載して作家活動に没頭していた。銀行から督促が来てもそれを無視し、知人に説教されてようやく出社するよう有様だった。

 後年、一三は稀代のアイデアマン・傑出した経営者として名を馳せるが、銀行員には不向きであった。本人も銀行時代のこと、特に自身の30代は「耐えがたき憂鬱の時代」だったと述懐している。一三は三井銀行での出世を諦め、かつてかわいがってくれた上司、北浜銀行頭取の岩下清周(いわした・きよちか【「せいしゅう」とも】)を頼って1907年に辞職した。しかし、紆余曲折があり、当初の見込みは頓挫、結局、阪鶴鉄道(大阪―舞鶴間)の監査役に就任する。ところが、「鉄道国有法」が制定され、同社は国有化。一転して無職になってしまう。

 阪鶴鉄道は国有化される前に、支線として大阪梅田―箕面(みのお)、宝塚―有馬、および宝塚―西宮間の路線設立を出願して認可を得ていた。その建設を実現するため、箕面有馬電気軌道の設立が検討されたが、有馬温泉・箕面公園といった山間地を結ぶ路線ということで採算が危ぶまれ、出資者が思うように集まらず、解散の危機を迎えた。

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阪急東宝グループ創業者・小林一三。鉄道経営にパラダイムシフトを起こし、後の私鉄やJRの経営手法に大きな影響を与えた。(画像はWikipediaより)
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阪急電鉄の路線図。当時はど田舎だった宝塚の発展も、阪急百貨店の賑わいも、小林一三翁のおかげなのかも。(画像は阪急電鉄公式サイトより)

「需要のあるところに鉄道を敷くのではなく、鉄道を敷いてから沿線に需要を作る」

 一三は箕面有馬電気軌道の発起人会に参加するため、大阪市池田にある阪鶴鉄道本社まで11キロメートルの距離を数度往復した。そこは箕面有馬電気軌道の沿線予定地であるが、人家が少なく、乗客は見込めない。しかし、沿線予定地の不動産を買って宅地を開発すれば、万が一、鉄道経営そのものが儲からなくとも、不動産収入で利益が出るはずだ。また、その住民が乗客になれば、運賃収入も見込めるはずとの予測を立てた。「需要のあるところに鉄道を敷くのではなく、鉄道を敷いてからその沿線に需要を作ればいい」。今でこそ当たり前となった私鉄会社の戦略が開花した瞬間であった。

 一三は資金をかき集め、1907年に箕面有馬電気軌道の創設にこぎつけた。筆頭株主・北浜銀行の代表として岩下清周が社長に就任し、一三は専務となり実務を担った。そして、沿線の池田新市街地の宅地を造成し、《売値の20%を頭金としてもらい受け、その残りは10年分割の月賦》方式で販売した。これが見事に当たり、大反響を巻き起こした。さらに豊中、桜井などの住宅地を順次販売し、大成功を収めたのである。

 箕面有馬電気軌道の経営は、しばらく岩下―小林コンビが担っていたが、1914年に北浜銀行が取り付けにあって、頭取・岩下清周が財界から引退、箕面有馬電気軌道の社長も辞任した。一三と北浜銀行の新頭取はソリが合わず、一三は同行所有の株式を買い取って大株主として実権を握り、1927年に社長に就任した。

 ちなみに、箕面有馬電気軌道は1918年に阪神急行電鉄と改称し、1943年に旧京阪電気鉄道を吸収合併して、京阪神急行電鉄と改称(1949年に京阪電気鉄道の路線を分離)。1973年に阪急電鉄と改称した。

「温泉地の催し物」として始まった宝塚歌劇、「東京の宝塚」としての“東宝”

 先述した通り、一三は鉄道経営だけでなく、宝塚歌劇団東宝、阪急百貨店(現 阪急阪神百貨店)を創設している。実は、これらも鉄道経営の延長にあった。

 一三は箕面有馬電気軌道の終点・宝塚が温泉地であったことに目を付け、大規模娯楽施設を設立することで乗客を増やす作戦を思いつく。「需要のあるところに鉄道を敷くのではなく、鉄道を敷いてからその沿線に需要を作ればいい」の応用パターンである。

 一三は宝塚の東側(武庫川東岸)を買収し、1911年に「宝塚新温泉」を設立。大理石の大浴場ときれいな家族温泉を作り、人気を博した。

 また、新温泉のなかに室内水泳場や動物園を作り、催し物を行って集客に努めた。その最高傑作が、「宝塚唱歌隊」(現在の「宝塚歌劇団」)である。

 当時、大阪三越が始めた少年音楽隊が一世を風靡していた。一三は宝塚新温泉地の余興として、少女の唱歌隊を結成したらどうかと思い立った。かくして1913年に「宝塚唱歌隊」を設立したのだ。

 さらに宝塚歌劇団の東京進出を計画し、1932年に株式会社東京宝塚劇場を設立。有楽町に劇場を建設して東京公演の拠点とした。東京宝塚劇場は映画の興行を開始し、東宝映画を設立。1943年に東京宝塚劇場と東宝映画株式会社が合併し、東宝となった。意外にも、東宝という社名は「宝塚歌劇団の東京拠点」という意味だったのである。

 東宝は戦後に『七人の侍』『ゴジラ』『天国と地獄』や植木等の『無責任男』、加山雄三の『若大将』シリーズなどの大ヒット作を連発。映画全盛時代を謳歌するが、テレビの登場で斜陽を迎える。東宝は単独でテレビ局設立を目論むが認可されず、フジテレビへ出資するにとどまった。こうした関係から、東宝のトップはながらくフジテレビ取締役を兼務し、親密な関係を維持。テレビ局とタイアップして『踊る大捜査線 THE MOVIE』などドラマの映画化で大きな興行収入を挙げている。

 また、阪急百貨店の設立は「交通の便がよい鉄道駅に百貨店を併設すれば、儲かるに違いない」という発想がもとになっている。いまでこそ、駅に繋がるターミナル・デパートの存在は当たり前だが、百貨店が都心部にあった当時は、自動車で駅から百貨店へ送迎迎するのが一般的だったようだ。そこで、一三は1925年に日本初のターミナル・デパート「阪急マーケット」(のちの阪急百貨店)を開業、大成功を収めた。

 ちなみに一三の東京の弟子が、東京急行電鉄の創業者・五島慶太(ごとう・けいた)で、東急も師に倣うように東映、東急百貨店を設立している。

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“東宝社長の弟”となった、熱血男、松岡修造。兄・宏泰は56歳、弟・修造は54歳である。

東宝の世襲人事…創業者一族とサラリーマン社長の“バランス”

 小林一三には3人の息子がおり、長男・小林富佐雄(ふさお)が東宝の社長、三男の小林米三(よねぞう/八月十八日生まれ)が阪急電鉄の社長を引き継いだ。

 次男・松岡辰郎(1904~1974年)は松岡汽船社長・松岡潤吉の婿養子となり、1945年に松岡汽船社長に就任したが、富佐雄が50代の若さで死去してしまったため、1966年に東宝社長を引き継いだ。1974年に辰郎が死去すると、ショートリリーフの社長を挟んで、1977年に辰郎の次男・松岡功(1934年~)が社長に就任している。

 功は還暦を機に1994年に社長を退任。長男・松岡宏泰(1966年~)はまだ20代で、同年に関係会社の東宝東和に入社、1998年に同社取締役、2008年に社長に就任。2014年から東宝取締役に就任し、常務取締役、常務執行役を経て、今回の社長昇進に至ったものだ。

 たいていどんな家庭でも、親子の年齢差は20〜30歳以上離れている。子どもが20〜30代の若いうちに社長を譲って失敗する例も数多くあるが、トヨタ自動車や東宝は、世代的に合致すれば創業者一族から社長を選び、そうでない時期にはサラリーマン経営者に社長を任せている。ただでさえ世襲には批判が多いので、そうした工夫が必要なのかもしれない。
(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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