戦後の日本企業は経営者が強かった
ところが、戦後の日本企業は一転して、専門経営者(=サラリーマン重役)が強くなっていく。
財閥解体で、巨大企業を支配していた財閥家族が経営から強制退出させられ、財閥本社は解散。それらが所有していた株式は株式市場に放出された。それとともに、資産家層に莫大な財産税・相続税をかけ、戦前ほどの大金持ちがいなくなった。それなのに、1950年代中盤に起こった高度経済成長で、企業が爆発的に成長した。もはや個人では大株主の地位を維持できないほど、企業の資産が膨張したのだ。
株式所有が広汎に分散した結果、戦後の日本企業では、株主が経営者を抑えることができなくなっていった。その状況が、取締役の人選に大きな影響を与えていく。
戦前は株主が取締役になり、取締役会で社長を選んでいたが、戦後になると「取締役=株主」という構図が崩壊してしまう。建前では取締役会で社長が選ばれることになっているが、実際は社長が取締役を決めていた。かくして戦後の日本企業では、取締役などの人事をすべて握る社長が、絶大な権力を持つに至ったのである。
ガバナンスの担い手はメインバンク
では、社長を抑える者がいなかったのかといえば、そうではない。怖かったのは株主ではなく、銀行なのだ。
高度経済成長期は「作れば売れる」時代だった。しかし、それにはカネが要る。個人大株主がいないということは、そもそも株式市場が振るわなかったということにほかならない。そこで日本企業は、その旺盛な資金需要を大銀行に頼らざるを得なかった。高度経済成長期の日本企業の資本構成は、株式:銀行融資がおおよそ1:3だったという。企業は資金調達に苦労して、それこそ大銀行から信用金庫まで借りて借りて借りまくったのだが、「ご融資には審査があります」となる。
数十の金融機関相手に企業が書類を書くのも面倒だが、金融機関だってひと苦労である。そこで、メインバンクという役割が生まれた。最も親密な銀行がメインバンクとして当該企業を審査し、その他の金融機関がメインバンクの審査を信じて協調融資を形成するという方式だ。
換言するなら、企業が借りて借りて借りまくるには、メインバンクの意を損ねてはならない。なにせ、どの企業にカネを貸すかは、銀行の胸三寸なのだ。株主なんかぁ、目じゃあない。
一方、メインバンクはそれこそ案件ベースで当該企業の経営を審査していた。というのも、融資というのはお小遣い制(月額いくら)ではなく、すべて案件ベースで発生するからである。「こういう事業を起こすから、予算がいくらくらいで、自己資金がいくらくらいで、これぐらいお借りしたい」というロジックだ。
1970年代の三菱商事社長の述懐によれば、メインバンクの三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)役員が居並ぶ席で、1件1件案件を説明していると、「なぜこの案件は三菱銀行を通していないのかね?」といった細かい質問がたくさん飛んできたのだという。
こうして日々の経営に口出す反面、メインバンクの責任は重かった。
当該企業が経営不振に陥ると役員を派遣して経営の立て直しに奔走し、最悪、企業が破綻すると、協調融資に参加した他の金融機関からカネ返せとばかりのプレッシャーを受け、実際、相当の負担をかぶって破綻処理を行わなければならない。
事実、1977年に「十大総合商社」の一角・安宅産業が倒産した際、メインバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)は同年9月の決算で1132億円もの不良債権を一挙に償却するハメになり、11年間守っていた銀行業界収益トップの座を降り、都市銀行13行の中で8位に陥落した。この事件は、その後の住友銀行の経営方針に大転換を強いるほどの大打撃を与えたという。
だから、銀行は融資・審査を通じて、厳しく企業経営を監視していたのである。