原田は1948年12月3日、長崎県佐世保市で生まれた団塊の世代である。実家は養鶏場。長崎県立佐世保南高校を卒業、「受験日がいちばん早かった」東海大学工学部通信工学科を受け合格した。基地の街で育ったことから、外国人に抵抗感はなかった。卒業後は、外資系一筋だ。最初に就職したのは日本NCRである。日本金銭登録機と米ナショナルキャッシュレジスターの合弁企業。徹底した能力主義でふるいにかけられたが、生き残り、花形の開発部門に配属された。だが、業績不振からNCRの開発部門は閉鎖。やむなく32歳で、コンピュータ関連の日米の合弁会社、横河ヒューレット・パッカード(現・日本ヒューレット・パッカード)に転職した。開発で入ったが、営業に回され、3年で辞めた。
次の転職先は、石油開発に付随するITサービスの大手、シュルンベルジェ・グループだった。立川市にあるマンションで、米国人のボスと2人で、日本法人の立ち上げに携わった。バランスシートの作り方から、マーケティングなど経営者としての腕はこの時、磨かれた。当時、シュルンベルジェは商社を代理店として、半導体関連製品を日本に売っていた。日本法人の取締役マーケティング部長となった原田は、代理店契約を打ち切り、直販部隊を作ることを本社に提案した。
4回目の転職先はアップルコンピュータ・ジャパン(当時)である。90年、42歳でマーケティング部長として入社した。ビジネスマーケット事業部長、取締役マーケティング本部長と昇進を重ね、96年には米国本社に勤務して、世界市場を相手にマーケティングを担当した。97年日本法人のアップルコンピュータ社長と米本社の副社長を兼務した。49歳のときだ。
日本法人の社長としての実績は、流通改革=直販化の推進である。40社強あった一次卸店を4社に減らし、3000店以上あった販売店を100店に削るという荒療治をやった。
経営手腕を買われて、米マクドナルド本社にヘッドハンティングされた。アップルの主力製品Macintosh(マッキントッシュ)の愛称がマックだったから、この移籍は「マックからマックへの華麗な転身」と話題になった。
取り組んだ流通改革の成果が花開くであろう時期に、原田は、なぜ、アップルを去ったのか? 原田は、アップル本社の幹部にこう打ち明けたという。
「IT業界はグローバル・ワンマーケットで、かつワンビジネスモデルの時代になる。日本法人の社長というキャリアのバリュー(価値)は、今後なくなっていくと思う」
世界を席巻したiPhoneは世界で同時発売され、確かにグローバル・ワンマーケットのビッグな商品になった。アップルはIT商品を売るのに、原田が日本法人のトップとしてつくりあげた流通システムを必要としなくなったということである。だから、原田はアップルを去った。キャリアを磨いてきたマーケティングで勝負するためにだ。
「今から新しいバスが出発する。新しいバスのチケットを買いたい人は買え。買いたくない人は乗らなくてかまわない」。04年5月、日本マクドナルドホールディングスのCEOに就いた原田は、全社員を集めてこう言い切った。自分が運転するバスに乗る者には、それ相応の覚悟を求め、その覚悟を持たない者には去れ、という態度表明だった。
●客足は伸びても売り上げが落ち込み続ける
日本マクドナルドに乗り込んだ原田は、藤田の経営システムの解体を推進した。同社の企業体質は創業者であり初代社長の藤田田の個性によるところが大きかった。米国に本社を置く外資系企業でありながら、大家族主義を貫き、なまじの日本企業よりも日本型経営を行い「青い目をした日本企業」だったことはよく知られている。経営は、米マクドナルドからほぼ独立していたといっていい。