イ・ゴンヒ会長の特異な点は、骨肉の争いの勝利者だということだ。創業者のイ・ビョンチョル氏は3男、5女の子だくさんで、イ・ゴンヒ氏は下から2番目の3男。長男のイ・メンヒ氏が父の後を継いだ。
作家のイ・ヨンウ氏は12年5月に韓国で出版した『サムスン家の思悼世子』で〈イ・メンヒ氏の傲慢な経営手法にグループ内で不満が高まったため、3男のイ・ゴンヒ氏が長男のイ・メンヒ氏の追放を決断した〉と書いている。長兄追い落としのクーデターである。祖父母や両親、目上の人には敬意を払うという儒教的な価値観が根強く残っている韓国では、珍しい事例といえる。いまなお、サムスン一族の遺産相続争いが兄弟姉妹間で泥沼化しているのは、クーデターの名残と見ることができよう。これがサムスンの最大のアキレス腱との指摘がないわけではない。
イ・ゴンヒ氏は、日本企業が得意とした「理念を叩き込む経営」を重視した。情熱を持ち、不可能はないと信じ、必死で仕事をする社員を作り上げることに力を注いだ。いったんトップが決めたら部下はそれに従う。2年間の徴兵制で鍛えられているので、韓国のビジネスマンは上の命令に服従するといわれている。全員が英語か日本語を話すことができる。軍隊式ともいわれる組織力で、グローバルな市場で戦える社員を育ててきたことが、日本企業との決定的な差となって表れた。
1990年代後半にデジタル家電時代が幕を開けた。パナソニックのテレビ事業のつまずきは、2005年にさかのぼることができる。その年の春にサムスン電子とソニーが液晶パネルの工場を立ち上げた。当時は液晶は大型テレビに適さず、プラズマが優位だとパナソニックの社内では信じられていたが、電機業界のアナリストは、この時点で液晶とプラズマの勝負はついていたと口をそろえる。
ところがパナソニックは軌道修正するどころか、プラズマへの傾斜を強めていく。パナソニック(当時は松下電器産業、08年10月から現社名)の社長、会長として辣腕を振るった相談役の中村邦夫氏の成功体験があまりにも大きすぎた。ITバブル崩壊で、02年3月期に松下電産は創業以来の赤字に転落した。赤字額は4310億円。社長に就いた中村氏は、「創業者の経営理念以外は、すべて破壊してよし」と大号令を発し、聖域とされてきた系列販売店制度にメスを入れ、松下の代名詞だった事業部制を解体した。一連の構造改革を断行して、04年同期に黒字転換を果たした。
V字回復を果したパナソニックは、プラズマテレビへと傾斜していく。ライバル企業がプラズマから撤退しても、中村氏は「プラズマはわれわれの顔」として大型投資を急いだ。10年に稼動した尼崎第3工場(プラズマパネルを製造)と姫路工場(液晶パネルを製造)に計4500億円を投じた。だがサムスン電子に敗れた。工場の稼働率の低下で12年3月期に7721億円の最終赤字を計上する最大の原因となった。13年同期には7650億円の巨額赤字を連続して計上する。
12年3月期までにソニーは8年連続、パナソニックも4年連続で、テレビ事業は営業損益段階で大赤字だ。
パナソニックは、採算が取れないテレビに見切りをつけた。それが今回の脱テレビ宣言の意味だ。
対照的なのはソニーの平井一夫社長兼最高経営責任者(CEO)である。CES会場で「ソニーはかつての魔法のような魅力を取り戻し始めたと、消費者に納得してもらいたい」と力強く語った。平井氏は液晶より画質が優れる有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)パネルを使った56型の4Kテレビの試作機を初めて公開した。画像のきめ細かさなどの決め手となる画素数が現在のフルハイビジョンの4倍の「4K」と呼ばれる、次世代のテレビである。