一般的に日本の家では玄関ドアは家の中から引いて閉めますが、欧米では反対に押して閉めます。つまり、欧米は“内開き”です。外部から犯罪者が入ってきそうになった際に、全体重をかけて中からドアを閉めるためだそうです。一方、明治維新後に欧米から玄関ドアが入ってきた日本では、玄関は単なる出入りの場所ではなく、靴を脱いだり、挨拶をし合ったりする場所ということもあり、少しでもスペースを確保するために外開きになったといわれています。
そんな犯罪者から身を守るための欧米の内開きドアが、大きな悲劇を生んだことがあります。大作曲家ヨハネス・ブラームスが『ピアノ協奏曲第二番』を作曲した1881年に、ブラームスが居住していたウィーンのリング劇場というオペラ劇場で惨事は起きました。フランス・パリのオペラ・コミック座で初演されて話題になっていたオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』のウィーン公演の開演前の出来事です。
今か今かと開演を待っていた観客が見たものは、序曲の始まりではなく、舞台から上がる煙でした。火災が発生したのです。しかも、悪いことは重なり、客席も明かりが消えてしまい、パニックを起こした観客たちが殺到した西洋風の内開きのドアが、集団に押されて開かなくなってしまったのです。その結果、劇場という完全な閉鎖空間の中で400名以上の人々が煙に巻かれて死んでしまったのです。
この『ホフマン物語』は火災に祟られていたのか1887年には、初演を行ったオペラ・コミック座の火災により、楽譜を焼失する憂き目にも遭ってしまいます。ところが、これには後日談があり、2004年に、パリ市内にある別の劇場のパリ・オペラ座の倉庫で奇跡的に発見されたのです。なぜ燃えずにそんなところから見つかったのかはわかりませんが、当時の劇場の誰かが燃え盛る炎の中、大事な楽譜を抱えて持ち出してくれたのかもしれません。そのおかげで現在は、この名作オペラの完璧な上演を鑑賞することができます。
劇場は火災が起きやすい
実は、劇場というのは火災が起こりやすい場所です。たとえば、イタリアのトリノ王立歌劇場は1936年に焼失。それから40年近く後に再建されるまでは、トリノ市民は最大の喜びを失っていました。また、モーツァルトが上演を聴きにいったこともあるナポリのサン・カルロ劇場も、1816年に焼失しています。このように、火災に遭った劇場はヨーロッパに点在していますが、素晴らしいのは、その後、何年かかっても見事に再建され、今も人々を楽しませているということです。
劇場が火事になる原因はさまざまですが、特に舞台で出火することが多いようです。19世紀後半にエジソンが白熱電球を商品化するまでは、舞台照明といえばロウソクかガス灯でした。スプリンクラーもない時代なので、火が舞台セットに燃え移れば、あっという間に煙が上がり、閉鎖空間である劇場全体が炉のようになって燃え広がってしまいます。その後、電気による照明が主流になりましたが、当時の稚拙な電気系統から起こる漏電が、劇場を燃やしてしまうことも多かったのです。
現在は、しっかりと安全対策をされた最新の電気系統なので、出火の可能性は限りなく低いですし、もし何かあったとしても、すぐに消火できる設備も整っているので、ご安心ください。今でも、舞台上の効果のために火を灯したロウソク等が使われていますが、日本の劇場では、たった1本のロウソクでも消防署に届け出をしなくては違法となるくらいの厳しさですし、関係者に聞いたところ、ときどき抜き打ち検査まであるそうです。そして万が一、舞台上で火災が起こった場合には、大劇場の多くは、舞台前面を覆う巨大なシャッターが速やかに下りて舞台と客席を遮断し、客席に火煙が行かないような設備があるそうです。
リング劇場を燃やしてしまったウィーンをはじめとしたオーストリアの劇場はもっと厳しく、火を使う場合には舞台裏に怖い顔をした消防士がひとり立っていなくてはなりません。オーストリアでは、舞台からの火煙を遮断する壁を観客に見せなくてはいけないという法律まであり、緞帳(開演前と開演後に下ろす大きなカーテン)が火煙を遮断する素材でできているそうです。その大きな緞帳には美しい装飾も施されており、ときどき新調されてデザインが変更された際には、ウィーンのオペラファンの批評の的になったりするのです。
3度も火災に遭った劇場
ところで、もっとも“災難な劇場”はどこでしょうか。それは“水の都”イタリア・ヴェネチアにあるフェニーチェ劇場でしょう。イタリアの巨匠ヴェルディの『椿姫』が初演された伝統あるオペラ劇場で、劇場内の装飾も美の粋を集められている文化財としても貴重な建物です。しかし、もともと焼失した劇場の跡地に建てることになったのが、呪いの始まりだったのかもしれません。あろうことか、せっかくつくったにもかかわらず、完成間近に火災にあってしまったのです。その後、1792年に完成したものの悲劇は終わらず、1836年に2度目の焼失をしてしまいます。
それでもヴェネチア市民の力によって、たった1年後に再建され「まさにフェニーチェ(不死鳥)だ」と呼ばれたことから、その後、“フェニーチェ劇場”と呼ばれるようになりました。しかし不死鳥は、伝説では自ら炎に飛び込んで死に、再びよみがえる火の鳥なのです。
そんな不吉な名前を安易に付けてしまったのが間違いだったのか、1996年に3度目の火災が起きて、絢爛豪華な建物が再び廃屋同然となってしまったことは、オペラファンの方々であれば記憶に残っているかもしれません。とはいえ、現代では漏電や舞台上での火の使用による火災は考えられません。のちに判明した、この火災原因は放火でした。しかも驚くことに、電気工事を担当した会社の経営者が、工事の遅れによる契約違反の罰金を恐れて火をつけたのです。
そんな不遇にもめげずにヴェネチア市民は8年後、120億円かけてフェニーチェ劇場を完全に再現して、不死鳥のごとく復活させたことは世界中でニュースとなりました。最新の防火設備も整えられているはずです。
日本でも昨年は、沖縄の首里城焼失という悲しい出来事がありました。戦中に破壊されたにもかかわらず、沖縄の人々も願いの強さによって再建された建物です。最新の防火設備とともに、不死鳥のように再びよみがえってほしいと思います。
(文=篠崎靖男/指揮者)