指揮者はつらいよ…クラシックオーケストラの観客も知らない指揮者と楽員の意外な関係
「マエストロ」とは、オーケストラの楽員が指揮者に声をかける時の敬称です。もともとはクラシック音楽の発祥の地といわれているイタリア語で、英語の「マスター(熟達した親方)」と同じ意味なのですが、全世界のオーケストラで指揮者に対して使われています。
音楽大学を出たばかりで楽員が名前も覚えていないペーペーの指揮者に対しても、東ヨーロッパ出身でなんと読めばいいかわからない長い名前の巨匠であっても、「マエストロ」と呼べば振り向いてくれるので、とても便利な言葉です。
さて、僕が指揮者として活動を始めた頃の話です。ある日、楽員から「マエストロ、照明が明るすぎる」と言われ、僕は困ってしまいました。僕は指揮棒を振ってオーケストラに演奏してもらう仕事です。それなのに、照明のことを言われてもどうしようもありません。ほかの楽員から、「マエストロ、舞台が暑すぎませんか?」と同時に言われたりすると、ますます戸惑うばかりです。
これは普段演奏しているホームグランドのコンサートホールでなく、出張公演での慣れない会場のリハーサルの際に多く起きる出来事です。日本のオーケストラのステージマネージャーは気が利いているので、演奏が始まる前にあらかじめ「照明は大丈夫ですか?」と楽員に聞いたりするのですが、海外のスタッフはおおざっぱなことが多いので、演奏が始まってから楽員が「照明が眩しくて指揮者が見えない」「暗すぎて楽譜が見にくい」などと目の前に立っている人物、つまりは指揮者に言ってくるのです。
意外に思われるかもしれませんが、オーケストラが演奏している場所は、本番はもちろん、リハーサル中も本当に指揮者と楽員のみの空間なのです。もちろん、リハーサルの前には、事務局員やステージマネージャーがオーケストラの周りを忙しそうに歩き回りながら、「明日のリハーサル、僕の出番は1曲しかないけど、何時くらいから始まりそう?」「コンサートのチケット余ってない?」「椅子がガタガタするから変えてくれ」といった楽員からの質問や要望に対応しています。しかし、リハーサルが始まり、なんの問題もなく進んでいくのを確認すると、スタッフ全員が無言で示し合わせたように、ほんの小さな音もしないように静かに退出し、書類の山が積まれた机に戻っていきます。
そんなスタッフに関係なく、オーケストラはリハーサルを続けていくのですが、途中で数名の楽員が“舞台照明が明るすぎる”と気づくわけです。しかし、自分たちの目の前にいて、こちらを向いている人物は指揮者しかいません。しかも基本的に、指揮者がリハーサルの流れを決定しており、ステージマネージャーも事務局員もいないなか、消去法で残った指揮者に言うしかないというのが実際のところかもしれません。しかし、苦情を言われたところで残念ながら指揮者には何もできません。そこで指揮者は大声でステージマネージャーを呼び、照明スタッフと調整することになります。
演劇やオペラとは異なるオーケストラのステージ照明
ここには、オーケストラのステージ照明における特別な事情があります。通常の舞台の照明、たとえば演劇やオペラで「輝く真夏の太陽」「寂しい夕焼け」「どんより曇った窓の外」「暖かそうな室内」などを演出するために次々と変えていく照明とは違い、オーケストラのステージは約2時間のコンサート中、照明の色はまったく変わらず、ずっと自然光のような色です。オーケストラや室内楽等のクラシック音楽は、聴覚を通じて音の表現を個人個人で味わうことを醍醐味としているので、むしろ照明の変化が邪魔になってしまうのです。
そんなオーケストラの舞台照明は、まずステージの天井から強い光が当てられています。これは、一般の家のリビングの照明と同じです。基本的にコンサートホールには窓がないので、この照明がなければステージは真っ暗で楽譜を見ることはおろか、歩くこともできません。逆にこの照明さえあれば演奏はできますが、観客は楽員一人ひとりの顔や演奏している姿を見るのも楽しみにやってくるので、すべての楽員を照らすために観客席の天井やステージの両サイドから強い光源、つまり楽員たちに対して正面から当たってくる照明が必要となります。実は、これが曲者なんです。
強い光が直接目に当たった楽員は、まるで懐中電灯を目に向けられたようになってしまい、指揮者や仲間たちが見えなくなるだけでなく、眩しくて楽譜すらも見にくくなってしまうので大問題です。
ちなみに、日本はどんな地方であっても、素晴らしいホールがある珍しい国です。とはいえ、オーケストラコンサートは毎日開かれているわけではなく、一年に一度開催されるくらいのホールも点在しています。そのため、市の行事や落語会、演歌のコンサートにまで使えるような、多目的なホールとして設計されており、照明設備はステージ上の人々の顔をはっきりと照らすように設置されています。しかし、オーケストラでは楽員に直接光を当てると演奏できなくなるので、そんなホールの照明スタッフの苦労は大変なのです。
最近では、クラシックオーケストラのコンサートでも、色とりどりの照明を使う演出が増えていますし、僕も積極的に試みています。しかしながら、通常のクラシックコンサートのように、演奏家も観客も気にならない、むしろ気づかれてはいけない照明こそ、豊富な経験を積んだ照明スタッフにしかできない、プロ中のプロの仕事なのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)