米ゼネラル・エレクトリック(GE)の会長兼最高経営責任者(CEO)を長年務め、「伝説の経営者」と評されたジャック・ウェルチ氏が3月1日、腎不全のため死去した。84歳だった。
1981年から20年にわたってGE会長を務めたウェルチ氏は、成長が期待できる事業に力を入れる「選択と集中」をテーマに掲げてGEを改革。在任中に株式時価総額を約30倍に拡大させ、GEを世界有数の優良企業に育て上げた。「選択と集中」は多くの企業経営者の手本となり、ウェルチ氏は「20世紀最高の経営者」「経営のカリスマ」と呼ばれた。
名経営者にも光と影がある。最大の負の遺産は金融事業への過度の傾斜だ。短期資金を安く調達し、長期で運用してサヤを抜く事業モデルが、08年のリーマン・ショック後の世界金融危機で立ちゆかなくなり、GEは破綻の瀬戸際まで追い込まれた。ウェルチ氏が育てた金融事業などは売却を迫られ、今も立て直しに苦戦している。
とはいえ、ウェルチ経営の輝きが消えたわけではない。「世界で1位か2位になれない事業から撤退する」という「選択と集中」はウェルチ氏が遺した有名な言葉だ。強い事業への特化は、経営不振の企業には今も有効な処方箋だ。
キヤノンは終身雇用を守りながら「選択と集中」を実施
日本では1980年代のバブル経済の真っただなか、多角経営の四文字がもてはやされた。「選択と集中」が注目されるようになったのは、バブル崩壊後の1990年代半ばからだ。バブルの時代に広げすぎた戦線の縮小を迫られ、その時の行動指針になったのが、ウェルチ氏の「選択と集中」だった。
「選択と集中」の最大の難問は雇用慣行である。ウェルチ氏の手法は大規模な人員整理・解雇とワンセットだからだ。長期雇用を重視する日本では、従業員の解雇につながる事業の売却は簡単にはできなかった。
この難問に回答を与えたのが、95年にキヤノン社長(現・会長兼CEO)に就任した御手洗冨士夫氏である。23年間、米国に駐在した御手洗氏は「経営手法は世界共通だが、雇用はローカルに徹する」という独自の経営哲学を生み出した。伝統的な終身雇用制を守りながら、パソコン事業など赤字部門を切り捨て、複写機やプリンターに使うインクカートリッジに経営資源を注力する「選択と集中」を実施した。首を切らない代わりに、年功序列は廃し、実力主義の賃金体系を取り入れた。御手洗氏の手法は、ウェルチ氏の「選択と集中」の日本バージョンである。
黒字企業を切り離した武田薬品工業の「選択と集中」
たいていの企業は、経営が厳しくなってから「選択と集中」に踏み切る。だから、うまくいかない。経営が好調のときに断行したほうが、成功する確率が高いことは明らかだ。一時的に売り上げが減っても、会社は全体として好業績のまま大きな事業構造の転換を図ることができるからだ。この際の難問は、黒字事業をスパッと切ることにある。黒字事業から撤退することには社内外から抵抗が大きい。
93年、武田薬品工業の社長に就任した武田國男氏は黒字事業を売却して、成果を上げた。非医薬品事業から撤退し、最先端の医薬品へ経営資源を集中した。非医薬品は父親である6代目武田長兵衛氏が育てた分野である。数ある改革のなかで、周囲が最も抵抗したのは、この切り離しだった。
売却先は、いずれも日本の各分野のリーディングカンパニーを選び、根気強く説得した。ここからが武田独自の手法だが、いきなり持ち株を100%売却するのではなく、5年程度の期限付きでジョイントベンチャーを組み、緩やかに委譲するやり方を採用した。従業員が新しい会社に溶け込みやすいようにするためだ。移籍する従業員に対し最大限の配慮をする武田國男氏の「選択と集中」もまた、日本バージョンだった。
半導体と原発に特化した東芝は大失敗
「選択と集中」には2つの大きなリスクがある。
1つ目は当たりはずれが大きいという点だ。一発当たれば儲けは大きいが、外れたら、当初の皮算用など吹き飛んでしまう。特定分野に特化することは、ハイリスク・ハイリターンの戦略なのである。
2つ目は短期決戦型になりがちなことだ。長期的な視野に立った経営には向いていない。儲かっていない事業は切り捨てるわけだから、4~5年のスパン(期間)で業績を向上させるのには適している。だが、特定の事業だけで長期的に高収益を続けることは至難の業だ。「選択と集中」は儲からない新事業の可能性の芽を摘み、縮小均衡を繰り返す悲惨な結果を招くことが多い。
これで名前を売ったスター経営者は、東芝社長(当時)の西田厚聰氏である。圧巻は06年2月、米原子力プラント大手、ウェスチングハウス社(WH)の買収だ。大本命と目されたのがWH社と古くから取引関係があった三菱重工業。東芝は想定をはるかに超える約6200億円の買収価格を提示して、最終コーナーで三菱重工を抜き去り、大逆転に成功した。
勝者となった西田氏は、半導体と原子力発電を経営の二本柱に掲げた。両事業に経営資源を集中する一方、音楽事業の東芝EMIや銀座東芝ビルを売却、DVD事業から撤退した。半導体は国内首位で世界3位、原発は世界首位(いずれも当時)に躍り出た。鮮やかな変身は、経済メディアから高く評価された。
しかし、西田氏は「東芝のウェルチ」にはなれなかった。2つの事業とも特有のリスクが付きまとっていたからだ。半導体も原子力もハイリスク、ハイリターンのビジネスだった。半導体事業は価格と需要の変動が激しい。08年のリーマン・ショック後の需要の急減によって価格が70%も下落。東芝の半導体事業は巨額赤字に転落した。
もう1つの柱、原子力発電事業は、11年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故で暗礁に乗り上げてしまった。結局、原発事業も売却し膨大な赤字を計上し、東芝は経営危機に陥った。「選択と集中」の大失敗から、今だに立ち直れないでいる。
本業に特化した日立は成功例
08年のリーマン・ショックで、巨大な赤字に沈んだところまでは、日立製作所と東芝は一緒だった。東芝の長期の低迷と対照的に、日立は米GE、独シーメンスら「世界の巨人」と肩を並べようとしている。
東芝の「選択と集中」は、リーマン・ショックがもたらした世界的大不況で輝きを失った。ところが、日立は成功した。その差はどこにあるのか。日立が短期間に復活できた最大の原因は、不採算事業から迅速に撤退し、より採算性の高い事業に経営資源を集中させたからだ。
日立も東芝も発電機などを製造する重電メーカーだが、どこを削るかのグランドデザインづくりが違っていた。東芝は原子力発電所に経営資源を投入。日立は本業の重電に回帰した。日立は家電出身やパソコン畑の社長が続き、重電からの脱却に経営の舵を切った。だが、これがうまく行かず、起死回生策として09年、子会社の社長に飛ばされていた川村隆氏が本社に呼び戻され社長に就任。保守本流の重電出身の川村氏の手で重電回帰のシナリオが練られ、全社をまとめた。
BtoC(個人向け販売)からBtoB(企業間取引)へ事業構造を転換。テレビなど消費者向けの日立製品の自社生産をやめ、安定的な需要が見込める企業間取引で成功を収めていく。
2010年に川村氏は会長となり、中西宏明社長(当時、現会長)との川村=中西コンビが大きな変革をもたらす。歴代社長の“負の遺産”を次々と切り離し、「タブーなき改革」へと突き進み、現在も「選択と集中」を推進中である。
日立は赤字の元凶だったテレビの国内生産からいち早く撤退した。ソニー、シャープ、パナソニック、東芝は低迷するテレビ事業にこだわり続けた。何を選択するのか。経営陣の決意(意思)が明確に伝わる象徴的な「選択」をするかどうかで明暗が、はっきり分かれた。
(文=編集部)