「1万時間の法則」を実践してみたYouTuberが話題になっているようです。「1万時間の法則」というのは、アメリカのジャーナリストで元ワシントンポストのニューヨーク支局長、マルコム・グラッドウェル氏が提唱した説で、「ある分野でスキルを磨いて一流として成功するためには、1万時間もの練習・努力・学習が必要」というものです。父が数学者、母がジャマイカ人のセラピストという彼の生い立ちを背景に、雑誌「ニューヨーカー」トップライター時代には医学、テクノロジー、社会現象という違う分野を同時に扱いながら、彼独自の視点で世界の成功者の共通点を分析した『天才!成功する人々の法則』(講談社)を2008年に出版。その中で書かれているのが「1万時間の法則」なのです。
さて、このユーチューバーがチャレンジしたのは、サッカーのシュート練習を1万時間続ければ、デヴィッド・ベッカムやロベルト・カルロスのようなキックを習得できるのかという、気の長い企画でした。彼は、このチャレンジにあたり計画を細分化し、1時間で100回シュートできると考えて合計100万回のキック練習に挑み、今もユーチューブに投稿し続けています。
最初の頃は、「根気のあることをやっているなあ」といったコメントが多かったのですが、しばらくすると「まだやっていたのか、凄いなあ」と称賛が増えてきました。ところが今年3月、海外クラブと契約に至ったと発表しました。1万時間の法則を実践した結果、海外のサッカークラブに入団することになったのです。
もちろん、彼はキックだけでなくドリブルも含めたスキルアップにも努力をしていたわけですが、僕もこの話を聞いて「1万時間の法則」に興味が湧きました。クラシックの世界でも、一流演奏家になりたければ1万時間練習をしたらいいことになります。
1万時間の練習で一流演奏家になれるのか
そこで、1万時間の練習で一流演奏家になれるのかを考えてみました。
まず「一流演奏家とは何か」と定義するにあたり、単純に「演奏活動を仕事としている人」としてみます。すると、ソリストはもちろん、オーケストラ団員、フリーランスの演奏家などが含まれますが、たとえばピアニストの場合、ピアニスト人口が莫大すぎて固定給をもらえるオーケストラに所属できるチャンスは狭き門どころではありません。そもそも、ピアニストを正式団員として雇っているオーケストラはほんの少しなので、演奏だけで生活できる方はそれほど多くありません。そこで、「ピアニストとして自立し、定期的に観客を集めて演奏会を開いている人」という定義にします。
他方、ヴァイオリンやピアノは3歳くらいから始めた奏者も多い半面、10歳くらいから始めた優秀な奏者も結構いますので、スタート地点が幅広くなります。しかし、共通するのは、中学生くらいから本気になって音楽の専門高校に入ったり、普通高校に通いながら専門教師のレッスンを受けて音楽大学に入学するというのが、よくあるパターンです。また、管楽器奏者は体が楽器ともいえるため、ある程度身体的成長が必要で、中学校や高校で本格的に始めた方がほとんどです。そんななか、10年に1人の天才として、高校生でありながら派手にデビューするソリストもいたりもします。
つまり、人それぞれなのですが、平均的に考えて「高校3年間と音楽大学4年間で専門的に努力して、一流奏者となれるかどうか」を計算してみます。
プロの音楽家になりたいと思ったときに、まずやるべき大切なことが2つあります。ひとつは、自分に合った良い音楽教師を見つけること。もうひとつは、練習をたくさんして努力することです。音楽教師のレッスンは通常、週に1時間程度なので、それ以外の時間は、自分ひとりで練習することになります。試験前の週末ともなれば、8時間や10時間練習したというのはよくある話ですが、今回は除外して考えます。
ここで、専門教育を受ける高校と大学の7年間に、毎日4時間練習したと仮定してみます。演奏家を目指している音楽学生は、それこそ毎日練習しているので、正月等を除いて、1年で360日練習したとすれば1440時間。7年間で約1万時間となります。「1万時間の法則」に従えば、高校と音楽大学の7年間のひたむきな努力で、一流の音楽家ができあがることになります。しかし、音楽大学を出て演奏家になれるのは、ほんの一握りです。昨年、厚生労働省が発表した2019年度の「大卒就職率97.6%」などは、音楽家にとっては“違う世界の話”なのです。
努力できることも才能の一部
さて、「1万時間の法則」ですが、米プリンストン大学が2014年に行った研究では、この法則には不備があったとされています。練習量が少なくてもトップレベルになるような天才が一部にいて、逆にどんなに練習しても上達しない人もいるというのが彼らの論点で、練習量が多いか少ないかは実は関係ないという指摘です。
これには、僕は反論します。一流演奏家はひとり残らず練習の虫です。僕は、オーケストラ楽員がものすごく練習しているのを見てきましたし、著名なソリストが朝から晩まで、時を忘れて練習をしている話を聞くことも多いのです。舞台に上がる直前になっても、舞台袖で楽譜をピアノの鍵盤に見立てて指を動かし続けているピアニストも少なくありません。しかし不思議なことに、彼らはあまり苦にしている感じがしないのです。
野球の世界でも、現役時代は練習嫌いとして有名だった落合博満さんや新庄剛志さんが、実際にはすごく練習していたのと同じかもしれません。ただ、一般人と違うのは、練習の努力を苦にしないので、周りの人にはその努力が伝わりづらいのでしょう。努力自体、生まれ持った才能だという精神学者もいます。
最後に指揮者について考えてみると、1万時間もする指揮の練習が思いつきません。僕が学生時代、世界的に有名なアメリカのタングルウッド音楽祭の音楽セミナーで2カ月半勉強した時のことですが、宿舎の庭にあるテニスコートに指揮科の学生ばかり集まっていました。僕はテニスが初めてでしたが、指揮学生に教えてもらいました。そんななか、楽器演奏コースの学生は毎日練習に追われて、テニスコートの横を散歩する時間すらも惜しんでいたのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)