クラシックオーケストラ、演奏者たちの驚異の連帯…観客が知らないトラブル回避術
今や、日本のオーケストラのレベルは世界でも驚かれるほど高くなっています。一昔前ならば、マーラーの交響曲などは「これは大変」と、いつも以上に念入りに練習しなくてはならなかったのですが、今ではマーラーばかり演奏するようなアマチュアオーケストラがあるほどです。僕も海外に20年間住み日本に帰国した際、浦島太郎のように驚きました。
日本でも三本指に入るといわれている一般大学のオーケストラを指揮していた時のことです。この大学オーケストラも、マーラーの『交響曲第2番』を大成功させたのち、僕は客演指揮者として指揮台にのぼりました
オーケストラの演奏が始まってからしばらくたったころ、一挺のヴァイオリンが弦楽器セクションの奥のほうの、観客からは見えないところにある椅子の上に置かれていることに気づきました。「あれ、あんなところにヴァイオリンが置いてある。何かあったのだろうか? もしかして、これまで練習していた学生の一人に不幸があったのだろうか?」と少し気になってしまいました。
プロのオーケストラ楽員は、若い時に入団したのち、大概は定年等で辞めるまで同じオーケストラで演奏しています。一般企業のように転勤も配置換えもなく、ずっと同じリハーサル室と、会場の場所は違えども、いつも同じステージで演奏し続けるわけで、その関係は家族、もしかしたら家族以上に同じ時間を過ごしています。そんな楽員の仲間に不幸があったとしたら、みんなで悲しみを共有し、それを表すために、その楽員が座っていた椅子に楽器だけを置いて、追悼演奏をすることが多いのです。
そんなわけで、僕はてっきり不幸があったのかと思ったのですが、この大学オーケストラの場合は事情が違いました。実は弦楽器、特にヴァイオリンは高い音を演奏するために、楽器に張られている弦が細く、演奏中によく切れてしまいます。もちろん、各々の奏者はスペアの弦を持っていますが、舞台上に持ってきているわけではありません。張り替えるのにも少し時間がかかるため、スペアの楽器を舞台上に置いておき、弦が切れた場合にすぐに使えるようにしていたのです。そんな話を演奏会後に聞き、僕はホッとしたのでした。
世界が驚嘆した五嶋みどりさんの天才ぶり
演奏会中は、何があっても演奏を止めることはできません。たとえば、先述したマーラーの『交響曲第2番』などは、3楽章から5楽章までを続けて演奏するため、その時間は約50分にも及びます。そんな時に弦が切れたらどうするのでしょうか。慣習として、世界のどこのプロのオーケストラでも、弦が切れてしまった楽器を背後の奏者の楽器と交換して演奏を続けていきます。その楽器は順繰りに後ろに回っていき、最後尾の奏者は、足音を立てないように舞台袖に楽器と一緒に退場し、そこで新しい弦を張り変えて、舞台に戻ってきて演奏を再開することになっているのです。
実は、これはヴァイオリンのソリストにも起こるのです。むしろ、激しく弾き続けるソリストのほうが、弦が切れたりするトラブルは多発しがちです。ソリストの場合は目の前にいるコンサートマスターの楽器と入れ替えることになっていますが、同じヴァイオリンであっても一つひとつの個性が違うため、問題が生じるのです。
演奏家は新しい楽器を購入したとしても、半年くらいかけて自分の手になじませていくものなので、急に弾いたこともない他人の楽器で、超絶技巧を必要とされる協奏曲を弾きこなさなくてはならない事態は、ソリストにとっては最大のピンチとなります。特に、デビューしたての若いソリストにとっては、オーケストラと協奏曲を弾くことは最大のチャンスで、ここで大成功すれば次の仕事に結びついていきますが、そんな時に弦が切れてしまったら、それこそ悲劇ですし、経験の少ない若いソリストにとっては、頭が真っ白になってしまう事態でしょう。
ところが、この悲劇を大きなチャンスにしたヴァイオリニストがいます。それは、日本を代表するソリストのひとりで世界的ヴァイオリニストの五嶋みどりさんです。彼女が14歳の頃、世界的巨匠であるレナード・バーンスタインとボストン交響楽団をバックに、バーンスタイン本人作曲の『セレナード』という名の協奏曲を演奏していました。この曲は、ソリストにとっては大変な超絶技巧を必要とされるのですが、わずか14歳の天才少女のみどりさんは、易々と弾きこなしていました。
そんな時に、弦が切れてしまったのです。そして、コンサートマスターから渡されたのは、名器ストラディバリウスでした。しかも、当時小柄だったみどりさんは、まだ大人用のサイズのヴァイオリンを使用しておらず、4分の3サイズの子供用ヴァイオリンを弾いていたのです。世界的名器とはいえ、1.3倍以上も大きな大人用のヴァイオリンとなれば、彼女にとってはまったく違う楽器を弾くのと同じです。
しかし、事件はこれだけでは終わりませんでした。コンサートマスターが弦の切れたみどりさんのヴァイオリンを後ろの奏者に受け渡して間もなく、みどりさんがコンサートマスターから借りていたヴァイオリンの弦まで切れてしまったのです。固唾を飲んでいたオーケストラや聴衆の前で、みどりさんは落ち着いて、副コンサートマスターのヴァイオリンを借り、何事もなかったかのように、最後まで見事に弾き終えたのです。このビッグニュースは全世界に「大奇跡」としてあっという間に広まり、みどりさんは世界のスターヴァイオリニストの仲間入りをしたのです。
しかし、ヴァイオリンだけがトラブルに見舞われるわけではありません。トランペットの音を変えるピストンが動かなくなったり、管楽器の管に唾が溜まって音が出なくなったり、オーケストラ奏者にとっては、想像もしたくないような恐ろしいことが、実際には頻繁に起こっています。
こういう時には、指揮者は無事に終わるように祈るしかないのですが、ときには観客も気づかないような間一髪で難を逃れることを目撃するケースもあります。僕がフィンランドでオーケストラを指揮していた時のことですが、ある日、一番オーボエ奏者の楽器の様子が少しおかしいと感じた隣の二番奏者が、さっと唾を吸いとる紙を楽器に差し込んだのです。それを見た時には、僕は彼らのプロフェッショナリズムに驚くしかありませんでした。
(文=篠崎靖男/指揮者)