今現在、一番高価な自家用車といわれているのは、なんといっても英国・ロールスロイス社の最高級モデル「ファントム」です。第2位にイタリア・ランボルギーニ社の「アヴェンタドールSロードスター」が食い込んでいるものの、第6位のフェラーリの最高級車が入ってくるまでの第5位まで、ロールスロイスの高級モデル車が並んでいます。
そのなかでも、特別仕様としてホイールベースを延ばした「ファントム・エクステンデットホイールベース」の値段は、6540万(2019年の価格)。骨董価値のあるクラシックカーを除いた現行モデルの自動車では最高額で、家を2軒くらい買えてしまいます。
個人のための乗り物としては驚くべき金額ですが、もちろん陸地にこだわらなければ、本田技研工業(ホンダ)のプライベートジェット機は5億5000万円、ヤマハの高級クルーザー「イグザルド43」は1億5000万円ですので、上を見ればきりがありません。
ところで、最高額の楽器といえば、なんでしょうか。
僕の連載を読み続けてくださっている読者の方なら、ストラディバリ製作の最高級ヴァイオリン「ストラディバリウス」と思われるかもしれません。そんななかでも、楽器本体に美しい装飾が入れられているヴァイオリン・愛称「ロード」は、なんと20億円以上もします。ひと回り大きな楽器のヴィオラにいたっては、ストラディバリがあまり製作しなかったために世界に8丁しか現存していないので、「マクドナルド」との愛称が付けられている名器は2014年に、なんと45億円でオークションにかけられたのです。とはいえ、ストラディバリの名器の数々は約300年前に製作されており、骨董的な価値が付加されてしまうため、今回の話からは外します。
質問の答えは「パイプオルガン」です。パイプオルガンは、たくさんのパイプ(管)に空気を吹き込んで音を出す楽器です。教会やコンサートホールなどでご覧になった方も多いかもしれませんが、客席からも見えている天井まで届きそうな大きなパイプは、実は楽器の一部でしかありません。たとえば、イタリア・ローマのサン・ピエトロ大聖堂に次いで、世界で2番目の大きさを誇る英ロンドンのセントポール寺院に、世界で一番大きなパイプオルガンがあるのですが、パイプはなんと4560本も備え付けられており、その一つひとつが音色や音程など、別々の役割を担っています。
そんなパイプオルガンは、最初は教会でのミサやコンサートのために使われていましたが、その音の荘厳さや巨大さゆえに19世紀半ばごろからオーケストラ音楽にも盛んに使われるようになりました。今では日本においても、主要なコンサートホールならどこでも備え付けられています。しかも、見た目が豪華なこともあり、ホールの名物にもなっています。
東京芸術劇場のパイプオルガン、驚愕の費用
一例として、東京・池袋にある東京芸術劇場のパイプオルガンをご紹介しましょう。この世界最大級で、なんとロンドンのセントポール寺院の2倍近い9000本もパイプがあるパイプオルガンは、フランス・ガルニエ社が1990年の劇場オープンに合わせて製作したもので、当時の値段は3億8700万円です。しかし、支払い額はそれだけではありません。メンテナンス費用として、13年間で1億2000万円、つまり年間923万円を支払う契約も結ばれていました。購入額の3分の1の金額をメンテナンス料金として追加で支払うのは、あまりにも高すぎると思われるのは当然ですが、もちろん、最初の13年契約を過ぎてもメンテナンスはずっと続くのです。そこにはオルガンの独特な理由があります。
オルガンというのは、規格に当てはまった定型の楽器を、設置場所にはめ込むのではなく、その建物に合わせてつくり上げていきます。つまり、建物の中に建造物をつくり上げるようなもので、世界に同じものがひとつとしてない、すべてオリジナルなのです。しかも、音を調律するにしても、ピアノのように弦を張ったり緩めたりというような簡単なものではなく、長いものは11メートル、小さいものは小指くらいしかない一本一本のパイプを実際に吹いて音を確認しながら丹念に調整していくという、気の遠くなるような作業をしなくてはなりません。
そのため、東京芸術劇場のパイプオルガンのように9000本もパイプがあるものでは、調律だけでも1週間から10日間もかかります。しかも、コンサートホールのオルガンは、オーケストラのピッチと正確に合わせなければ使いものになりません。
パイプオルガンは世界で一番大きく高価で、メンテナンス料金もかかる大変な楽器であることがおわかりいただけると思います。しかし、たったひとりの演奏家が演奏しているとは思えないような壮大な音が、音響機器も通さずに2000人のホールの隅々にまで広がるのを聴けば、そんなことは忘れて大感動されるに違いありません。
ところで、パイプオルガンがそれほどまでに莫大な金額のかかるものであれば、小さな教会やホールでは手が届かなくなってしまいます。実は、個人でも購入できるような小さく、移動も可能なパイプオルガンも販売されており、世界の各地で活躍しています。
しかも皆さんは、小学校の頃に一度は同じような楽器を演奏したことがあるはずです。それは「ピアニカ」という楽器です。吹き込んだ息がパイプに通って音が出るという点では、パイプオルガンと構造が同じなのです。何が違うかといえば、パイプオルガンは楽器が巨大なために、電力モーターにより空気が送られている点です。
もちろん、パイプオルガン全盛期のバッハの時代には電力などないので、「ふいご師」と呼ばれる人たちが「ふいご」を人力で踏んで空気を送り、音を出していたのです。これは大変な重労働でした。夜中に急に演奏したくなり、気持ち良く寝ていたふいご師を起こすような迷惑な演奏家もいたそうですが、音楽の素養がある罪人に、刑罰としてこの大変な重労働をさせていたケースも多かったそうです。
音楽がわかる罪人というのも変な話ですが、中世のドイツでは、楽器がうまく弾けないのに演奏を人に聴かせて収入を得ていた演奏家を捕まえて処罰する法律がある町もありました。そんな町で、罪人たちが「たまたま、調子が悪かっただけなのに」などと下手な腕前を棚上げして文句を言いつつ、バッハが弾いている崇高なオルガンの下で、汗を拭きながらふいごを踏んでいたのかもしれません。
(文=篠崎靖男/指揮者)