オーケストラ最大の楽器「コントラバス」は移動も大変…飛行機では4席分の料金が必要に
僕がオーストリア・ウィーン国立音楽大学の指揮科で勉強していた頃、「まずは本場のオーケストラを聴かないことには」と、世界的に有名なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会は欠かさず聴いていました。
ウィーン・フィルの楽員の正式な身分は、「ウィーン国立歌劇場のオーケストラ団員」です。そんな彼らは1年に10回、好きな指揮者を招待してオーケストラの定期演奏会を開催しています。このオーケストラが特殊なのは、常駐の事務局員も働いているとはいえ、基本的には、楽員の中から会計や広報などの係を選んで自主運営している、世界で唯一のオーケストラであるという点です。
しかも、歌劇場の仕事は毎晩あるので、定期演奏会は土曜日の15時半と日曜日の11時というのが伝統です。正直、朝の11時からの演奏会なんて、時代に合わないのではと思いますが、座席は定期会員によって占められており、その権利は、それこそ代々引き継がれているので、今さら変えることは不可能でしょう。その権利を手に入れるには、いつ空きが出るかわからない、気の遠くなるくらい長いウェイティングリストの最後に自分の名前を書かなくてはなりません。それでも、定期演奏会の数を増やさないところに、ウィーン・フィルのこだわりがあるのです。
1年間にたった10回しか定期演奏会がないので、僕は大学の授業をさぼってリハーサルも聴きにいっていました。しかし、どこのオーケストラでもそうですが、基本的にはリハーサルは非公開です。最近、日本のいくつかのオーケストラでは、ファンサービスの一環で、応募者や招待者にリハーサルを一般公開することもありますが、実際には、もう通し稽古に入った最終日の公開であり、指揮者や楽員が真剣勝負の丁々発止をしているような場面は非公開です。「木管楽器の音程を合わせて」とか、「ちょっと指揮がわかりづらい」とか、結構厳しいやり取りはあまり見られたくないですし、来られたところで、小さな声でぼそぼそ話している感じですので、大して面白くもないでしょう。
さて、そんな非公開のウィーン・フィルのリハーサルを覗くため、まずはホールの通用門にあるブースにいかめしい顔で座っている門番をどうやってかわすのかが最大の関門でした。「リハーサルを聴きたいのですが」などと言ってしまったら、間違いなく追い返されてしまいます。そこを見つからないように体を低くし、なんとか通り過ぎることができてホッとしながら階段を上がっているところを見つかってしまい、追いかけられるというようなことは日常茶飯事でした。
今から考えれば懐かしい話なのですが、当時はなんとか潜り込もうと必死だったのです。しかし不思議なことに、ホールの中に入ってしまえば誰にも文句を言われることはありませんでした。ステージにいる楽員も、「きっと誰かの知り合いだろう」と思っていたでしょうし、彼らも学生時代には同じことをしていたのかもしれません。
ウィーン・フィル、驚愕のピアノ移動の手法
そんなウィーン・フィルは、「世界最高」と称されているオーケストラですが、意外なことにリハーサル時には、アンサンブルや音楽が合わないことも結構あったりします。それでも、コンサート本番では見事な演奏を披露していました。そんななか、ピアノ協奏曲を聴く演奏会がありました。最初に短い序曲があり、2曲目がピアノ曲でした。
ここで説明が必要となりますが、コンサートホールで使用するピアノは、通常のグランドピアノに比べてかなり大きく、「コンサート・グランドピアノ」と呼ばれています。たとえば、日本を代表する楽器メーカー、ヤマハの「コンサートグランドCFX」などは、全長2.75メートル、重量は491キロもあり、運ぶのも大変です。
新しい音楽専用ホールでは、舞台裏からステージへの大きなドアがあるので、ピアノは舞台裏に置いておき、必要な際にステージに運び込めるのですが、大概のホールでは、ピアノを使用するプログラムの場合、最初からステージの端に置いておいて、ピアノ用の台車のようなものを使って、何人かのスタッフでステージの前面に運びます。ピアノ移動のために、一部の弦楽器の椅子を一旦移動する作業も加わりますが、どれだけスムーズに、観客をイライラさせないように短時間で済ませるかが、ステージ係の大きな役割で、彼らもプライドを持ってこだわっています。
ところが1870年1月に開館したウィーン・フィルの本拠地、ウィーン楽友協会ホールの舞台裏は、人がすれ違うのもギリギリでピアノを置くことができず、独特なステージの形状のため舞台上にも簡単に置いておくこともできないのです。チケット入手が世界一困難なコンサートなので、なんとか多くの観客の要望に応えようと、ステージ上にまで観客の座席を置いているので、ピアノを置く場所はまったくありません。
そこでどうするかといえば、屈強な2人のステージスタッフがピアノの脚を外し、楽器を立てて、なんとか舞台裏の狭い通路を通し、そのままステージまで運んでくるのです。今はどうなっているのかは存じませんが、ものすごい力です。そのあと、ピアノの脚もステージ上でつけ直して準備完了となるのですが、僕も初めて見た時には、すっかり度肝を抜かれてしまいました。
大きな楽器は、どのように運ぶのか
ピアノは運ぶことが困難な楽器です。しかし、なかには自分の楽器をコンサートホールに運び込むピアニストもいます。たとえば、往年の名ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツは、自分のコンサート・グランドピアノだけでなく、グランド・ピアノ、アップライトピアノまで、東京でのたった2回のコンサートのために米ニューヨークの自宅から運んできたことで話題になりましたが、ものすごい運搬費だったと思います。しかも、彼は妻だけでなく、お抱えの医師や料理人まで連れてきたのです。
とはいえ、これは例外中の例外です。国内であってもピアノ運送費はかなり高額ですし、2000万円以上もする高額なコンサート・グランドピアノを所有しているピアニストも限られているので、ピアニストはホール所有のピアノを弾くことになります。しかし、ここに大きな苦労があるそうです。同じメーカーのモデルのピアノでも、かなり良し悪しがあり、それでも観客には最高のクオリティで聴かせなくてはならないからです。
自動車、電子レンジ、スマートフォンと、当然のように同じクオリティを持った製品に囲まれている現代人にとっては信じがたいかもしれませんが、ピアノを含めて木でできた楽器はひとつずつ違う木材から手作業でつくられているので、どうしても音に微妙な差が出ますし、これがプロになると大きな差になってしまいます。
同じ金属でできた金管楽器なら大丈夫かといえば、そうではなくて、奏者が購入する時には、同じモデルで見た目もまったく同じ楽器を10本くらい並べて吹き比べ、自分に合った楽器がなければ次の入荷を待つほどです。世界最大の楽器メーカーのヤマハであっても、今もなお音色にとって一番大切なベルは、熟練した職人が一つひとつハンマーで叩きながらつくっているのです。
さて、ピアノは例外として、ほかのオーケストラ奏者は自分の楽器を運び、それを演奏するのが基本です。しかし、楽器ごとに大きさは異なり、なかには運搬が大変なものもあります。弦楽器を例にすると、チェロくらいから満員電車に乗るのは厳しくなってきますが、問題は飛行機移動です。高価なチェロだと荷物として預けることもできないため、チェロ用の座席のチケットも購入しなければならず、2倍の航空運賃を支払うことになります。
もっと大変なのは、オーケストラ最大の楽器、コントラバスです。2メートル近くなるので、飛行機で運ぶためには特別なケースに入れ、高額な重量超過料金を支払わなくてはなりません。ウィーンに留学していた友人などは、飛行機の荷物庫に大事なコントラバスを放り込みたくないので、自分とコントラバスのために飛行機の座席を4席分購入して機内に持ち込んだそうです。
(文=篠崎靖男/指揮者)