クラシックオーケストラ、絶対に破ってはならない“不文律”…もし破ると背筋が凍る事態に
僕がフィンランドのオーケストラの指揮者をしていた頃、オーケストラと一緒に中国ツアーをしたことがありました。
当時、日本と中国は少し微妙な関係で、フィンランドと中国の友好と親善の象徴ともいえるコンサートのステージのど真ん中に、日本人の僕が立つわけですから正直、心配でした。しかし結局、それはまったくの杞憂で、場所によっては欧米から来たオーケストラを聴くのは初めてという町もあり、それを指揮しているのが同じアジア人の指揮者だということで、むしろ喜んでくれました。僕が彼らに日中の不幸な歴史の話をしても、「これからは、未来の日中友好を考えましょう」と笑顔で返事をしてくれた時には、感激で涙が出そうになりました。
中国に入国し、両替した中国人民元紙幣を見てみると、金額にかかわらず、すべてに“中華人民共和国の建国の父”毛沢東の肖像画が印刷されています。日本の紙幣に慣れている僕は少し驚きましたが、実は世界には同人物の肖像画が描かれている紙幣は珍しくありません。たとえば、タイのバーツ紙幣もすべて国王陛下ですし、南アフリカ紙幣もアパルトヘイト(人民隔離政策)解放運動の英雄、ネルソン・マンデラ元大統領です。ちなみに南アフリカ紙幣の裏面は独特で、“ビッグ5”と呼ばれる動物、サイ、ゾウ、ライオン、ヒョウ、水牛が描かれており、南アフリカの人々の動物に対する尊敬を感じます。
僕が当時在住していたイギリスのポンド紙幣も、すべてエリザベス二世・女王陛下が印刷され、紙幣だけでなく硬貨にまで女王の肖像が刻印されています。しかも、発行した時点での女王の年齢に合わせて、少しずつ姿かたちを変えているほどの念の入れようです。つまり、古い硬貨になればなるほど女王の姿が若くなっていくのです。
イギリス国内だけでなく、世界に散らばるイギリス連邦メンバー、オーストラリアの5オーストラリアドル紙幣も同女王です。“カナダ女王”として20カナダドルにも印刷されていますし、ニュージーランドでも20ニュージーランドは同女王です。エリザベス二世女王は、世界でお金に一番印刷されている人物なのです。
ところで、これらの国々には首相がいても大統領がいないことに気づきましたか? それは、これらの国々では国家元首がエリザベス2世女王だからなのです。そして、いつか女王陛下が退位し、息子のチャールズ皇太子が国王に即位したときには、すべてチャールズの肖像画に置き換わることになっています。
イギリスでは、郵便切手にまで女王の肖像が印刷されているのですが、その切手に対しての尊重も度を越しており、「切手の王または女王の肖像を逆さまに貼り付けてはならない」という法律まであるくらいです。万一、うっかり逆に貼ってしまったとしても、宛先まで届けてもらえるとは思いますが、気をつけなくてはなりません。
イギリスには、ほかにも面白い法律があります。それは「バーで酔っ払ってはいけない」というものです。欧米人に比べてアルコールに弱いといわれる我々は、気をつけなくてはなりません。「妊婦はどこで用を足してもよい」という法律もあるそうです。男の僕にはよくわかりませんが、おなかの中の胎児が成長するにつれて、母親の膀胱を圧迫するので、どうしてもトイレが近くなると聞いたことがあります。しかし、「どこで用を足してもよい」と言われても、なかなかそうはいきません。そのため、スコットランドでは、「トイレを借りたいと言われたら、必ず貸してあげなくてはならない」という法律があるそうです。
オーケストラにおける絶対的な不文律
ところで、オーケストラには「規則」があるのでしょうか。演奏を披露して、観客に喜んでいただいて対価を得る仕事なので、“良い演奏をしなくてはならない”という暗黙のルールはありますが、これは規則とはいえません。そして、基本的に楽員は演奏のみが仕事なので、事務的な仕事をすることはなく、実際にお金に触れることも、経理的な計算をすることもありません。たとえば、よくニュースでもあるような会社のお金を持ち逃げしたり着服したりするような犯罪行為は縁がありませんし、そもそもそんな発想もないので、オーケストラの楽員は一番クリーンな職業ともいえます。
そんななかで、唯一のルールがありました。これを破ると、無言で責められ続ける重罪中の重罪です。それは“遅刻”です。皆様は「そんなことなの?」と、拍子抜けされたかもしれません。
オーケストラの楽員には、「お得意先に立ち寄ってから出勤するので、11時くらいに出社します」なんてことはありえません。10時にリハーサルが始まるとなれば、10時にすべての楽員が顔を揃えていなくてはならないことは、学校の授業とは比にならないくらいです。音楽大学に入学し、最初に厳しく叩きこまれるのは、レッスンやリハーサル時間に遅れないことです。さらに、オーケストラに入団してからは、電車が遅れようと、交通事故のために道が混んでいようと、遅刻だけは絶対にしてはならないのです。
それには理由があります。たとえば、映画『のだめカンタービレ』(東宝)で有名になったベートーヴェンの「交響曲第7番」は、オーボエのソロで始まりますが、そのオーボエ奏者がリハーサルに遅れていたら、練習は開始できず、たった1人をすべてのオーケストラ団員が待つことになります。そんな時、事務局員は真っ青になって携帯電話でオーボエ奏者に連絡をしますが、もっと真っ青になるのは、その後、会場に到着した当のオーボエ奏者です。
ただでさえ、限られた時間内に多くの曲をリハーサルするので、この大幅な時間ロスは、リハーサルの責任者でもある指揮者も青くなります。オーケストラというのは、ひとつのパートでも欠けてしまうと演奏にならないので、集合時刻より1時間も早くリハーサル会場に入っている楽員も珍しくはなく、そんな雰囲気の中で若手が遅刻してきたとしたら、すべての楽員から冷たい視線を浴びることになります。
さらに、もしそれがコンサートであれば、2000人の観客も一緒になって、遅れて来る1人の奏者を待つことになるわけです。もちろん、遅刻が許されないのは指揮者も同じです。今、この文章を書きながら想像するだけで、背筋が凍る気分です。
(文=篠崎靖男/指揮者)