「棺を蓋いて事定まる」(晋書)
人間のその評価は、棺の蓋をしめてのち、はじめて定まるという。生きている間は、利害や感情が入り混じって公正な判断を下せないものだからだ。一方で、「死屍に鞭打つ」、つまり死んだ人の言行を非難することはしない。ことほどさように、人間の評価は難しい。しかし、経営者は結果で評価されるべきだ。
元日立製作所社長で経団連副会長を務めた庄山悦彦(しょうやま・えつひこ)氏が6月5日、すい臓がんのため死去した。84歳だった。大企業のトップを務めた大物の死で、メディア各社は庄山氏の評伝を掲載した。死者の過去をあげつらうことを潔しとしないのかもしれないが、いずれもヨイショ評伝だった。
庄山氏は1959年に日立製作所に入社。発電機をつくる技術者で、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)が1985年に運転を始めた核融合臨界プラズマ試験装置「JT-60」の建設で中心的な役割を果たした。91年に取締役に就任してからは家電部門を担当。事業再編の旗を振り、95年に販売会社の日立家電を本体に合併した。
99年、社長に。伝統的な重電中心の事業構造からデジタル分野へと大きくかじを切り、2003年には米IBMのハードディスク駆動装置(HDD)事業を買収した。だが薄型テレビ、ディスプレー、HDDのいずれもが業績低迷の原因となった。06年、古川一夫氏に社長職を譲り、取締役会長に就いた。
経営の一線を退くきっかけはリーマン・ショックだった。日立は09年3月期には国内製造業として当時としては過去最大となる純損失を計上。経営責任を取って相談役に退いた。経済専門紙は評伝で、庄山氏の経営責任を論じることをしなかった。「当時の日本では誰がかじ取りをしても同じ結果を生んだ可能性はあった」として、経営責任に免罪符を与えた。
「重電の日立」からの転換を図るべく多角化に突き進む
「重電の雄」と呼ばれた日立は、「東大工学部卒、重電畑出身、日立工場長経験者」によって社長の椅子は独占されてきた。高度経済成長で電力需要が伸び、原子力発電プラントをつくる部門が花形の職場だった時代だ。
1990年代後半、産業界はデジタル化が急速に進んだ。半導体やコンピュータなど新規事業分野に対する迅速な対応が求められた。納期などがあらかじめ、きちんと決まっていた重電部門の出身者は、このスピードに対応できなかった。しかも、同タイプの人間ばかりが幹部に登用される硬直的な社内人事が、日立に典型的な大企業病をもたらした。1999年3月期に3387億円の赤字に転落した日立は「東大工学部の金属疲労」と皮肉られた。
日立は「重電の雄」からの脱却に向け、かじを切った。99年、第7代社長に就いた庄山悦彦氏は、「東大工学部卒、重電畑出身、日立工場長経験者」という社長3点セットを満たしていなかった。東京工業大学理工学部(電気工学専攻)卒、家電畑出身、栃木工場長経験者だ。電機業界にデジタル化の波が押し寄せるなか、旧習は否定された。
庄山氏は多角化路線を採る。自動車からエスカレーターまで電子デバイスを活かしたモノづくりのために、次々と新しい事業を買収して社内に取り込んでいった。グローバル展開を謳い、その目玉として米IBMからHDD(ハードディスク事業)を2400億円で買収した。HDDはパソコンやサーバーに用いる記憶装置。日立のハードディスク部門と統合して日立グローバルストレージテクノロジーズ(HGST)を発足させた。HDD事業は巨額赤字の元凶となる。
庄山氏は第8代社長に古川一夫氏を起用した。東京大学大学院(電気)修士課程修了で、情報・通信畑出身だ。庄山=古川コンビは拡大路線をひた走った。売上高は悲願としてきた10兆円を超えたが、新しい事業は利益に結びつかなかった。躍進が期待されたデジタル家電で、庄山=古川コンビは大きくつまずいた。「技術は超一流」とされながら、薄型テレビで完全に出遅れた。半導体も市況悪化で窮地に陥った。
古川氏の抜擢は庄山氏が院政を敷くための布石だった面は否めない。古川氏は有効な手を打てなかった。業績は悪化の一途。一時は米国系買収ファンドが日立の買収を検討するほどだった。その迷走経営の結果が09年3月期の国内最大規模の7873億円の最終赤字となった。
子会社に飛ばされていた川村氏が社長に復帰
日立は再び大きくかじを切る。就任からわずか3年しかたっていない情報・通信部門出身社長を更迭。グループ会社の会長に出され、退任することが決まっていた重電出身者を呼び戻し社長に据えた。
川村隆氏は09年4月1日、日立製作所の会長兼社長に就いた。「東大工学部卒、重電畑出身、日立工場長経験者」という保守本流である。家電部門、情報・通信部門出身者が失敗したため、保守本流の重電部門に大政奉還したわけだ。
日立は当時、16社もの上場子会社を持っていた。各事業の自主独立を重んじる伝統があったからだ。日立そのものが久原鉱業から独立してできた会社だ。グループ会社とはいえ、そこのトップは一国一城の主である。「本社何するものぞ」という気概を持っていた。
かつて日立は「野武士」、東芝は「旗本」、三菱は「殿様」、松下(現パナソニック)は「商人」といわれた。日立の上場子会社群は野武士の気風を残していた。野武士集団を抑えるために、保守本流で最年長者の川村氏が引っ張り出されたようなものだ。
川村氏は09年4月20日、社長就任の記者会見を開いた。記者から庄山=古川時代の評価を聞かれた川村氏は「健全性を欠いていた」とバッサリ切って捨てた。社長就任会見で、前任者を完全否定するのは異例である。その頃、川村氏は「日立は倒産するかもしれない」と本気で考えていた。
川村氏は子会社に転出していた中西宏明氏(現会長、経団連会長)らを副社長に復帰させるなど、6人組で日立の奇跡といわれたV字回復を成し遂げた。川村氏に引き上げられた中西氏はHGST会長の時代にリストラを強力に推進して力量を示し、本社に復帰する糸口を掴んだというエピソードが残る。11年HGSTを米社へ売却して、赤字の元凶だったHDD事業に決着をつけた。
庄山氏の最大の失敗はHDD事業を買収したことにある。日立をドロ沼に引きずりこんだ。社長としては失格だった。
会長が院政を敷く愚を不問に付すな
「企業の最高の意思決定は社長に一元化しないと、ゴタゴタが起こったり、決定が不明確になる。また、社長が先輩に遠慮して経営をやるようでは、はっきりした経営体制はとれない」
第3代社長、駒井健一郎氏の言い伝えだ。駒井氏は「重電の日立」を総合電機メーカーに発展させた功労者だ。駒井氏の発言は至言である。庄山氏は実力会長として院政を敷いた。その愚かさがわかっているからこそ、川村氏は就任にあたって会長の庄山氏に一つだけお願いした。緊急事態でもあり、経営のスピードが何よりも大事である。「私が会長と社長を兼任し、素早く意思決定できるようにしたい」と要請し、受け入れてもらった。これを機に庄山氏は経営から完全に退いた。
川村氏は旧経営陣を一掃し、会長兼社長になり権限を一元化した。これが、日立の構造改革が成功した最大の要因である。
(文=編集部)