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東芝を殺したA級戦犯の経営者たち…権力欲と名誉欲乱れる抗争の成れの果て

文=有森隆/ジャーナリスト
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東芝を殺したA級戦犯の経営者たち…権力欲と名誉欲乱れる抗争の成れの果ての画像1東芝元社長・西室泰三氏(ロイター/アフロ)

 東芝の社長と会長、東京証券取引所会長、日本郵政社長を歴任した西室泰三(にしむろ・たいぞう)が10月14日午後8時50分、老衰のため亡くなった。81歳。東芝によると通夜は19日、告別式は20日に東京都目黒区中目黒3-1-6、正覚寺実相会館で近親者のみで営まれた。喪主は長女の陶子(とうこ)。お別れ会は、11月30日12~13時、千代田区内幸町1-1-1の帝国ホテル「孔雀の間」で執り行われる。主催は東芝で、喪主は同じく長女の陶子と決まった。

 東芝は上場廃止の瀬戸際に立たされている。原発事業の失敗などで東芝の経営危機が表面化すると、西室がその元凶だったとの見方が噴出。東芝をダメにした“A級戦犯”と糾弾されている。

「肩書きコレクター」。西室についた仇名である。名誉欲と権力欲は人一倍強かった。東芝会長になった西室は財界総理といわれる経団連会長の座を狙った。東芝は第2代経団連会長の石坂泰三、第4代会長の土光敏夫を輩出したが、その後は、新日本製鐵、東京電力、トヨタ自動車の経団連御三家の時代が続いた。

 西室は東芝からの3人目の経団連会長になる野望を抱く。そのポストは、経団連の副会長か評議員会議長に就いていて、現役の社長か会長であることが必要条件といわれていた。東芝の歴代社長は任期4年で交代している。唯一、例外なのは西室の後任社長として2000年に就任した岡村正だけで、5年社長をやった。

 01年から経団連副会長を務めていた西室は、東芝の相談役に退けば次期経団連会長候補の資格を失う。これを嫌って岡村を社長に留任させたから、こうなった。財界総理になりたいという思いが東芝のトップ人事を停滞させた。それでも、西室は経団連会長になれなかった。主要財界人のなかに西室を推す人がいなかったからである。

 東芝の歴代トップは財界総理病に蝕まれていた。西田厚聰の経団連会長への執念は、西室に引けをとらなかった。10年の“ポスト御手洗冨士夫”の経団連会長選びで、東芝会長の西田は最有力候補だった。御手洗も西田を後継に考えていた。

 だが、岡村が日本商工会議所の会頭の椅子に座っていたため、西田は涙を呑んだ。2つ以上の経済団体のトップの座を1つの企業の出身者が独占しない、という不文律が財界にあるからだ。

 本来なら財界総理は東芝が総力を挙げて取りに行くべきものである。「いざというときには岡村が日商から身を引く」との合意がなされていてしかるべきなのだが、肝心の西室と岡村が後輩に道を譲ることはしなかった。

「東芝からの3人目の財界総理は自分だ」と思っていた西室は、西田がなればプライドに傷がつく。岡村は大の西田嫌いで知られ、「岡村が日商会頭を続投して、西田の経団連会長就任を潰した」(有力財界筋)と噂された。

 それでも西田は経団連会長に執念を燃やし続けた。13年6月の首脳人事で、西田会長と佐々木則夫社長の抗争が火を噴いた。西田が佐々木を副会長に棚上げして会長に留任したのは、“ポスト米倉弘昌”の経団連会長を狙っていたからだとされている。経団連会長になるためには、東芝会長の肩書きは絶対に必要だった。

 東芝の歴代社長の内紛の背景には「財界総理になりたい」という病理が横たわっている。それをもたらした元凶が西室だった。

西室町時代を主導

 15年7月21日、不正会計問題で東芝の歴代3社長、田中久雄、佐々木則夫、西田厚聰が引責辞任した。日本郵政社長だった西室は、東芝の経営や首脳人事に介入した。12年に東芝の副社長を退任していた室町正志を呼び戻し、会長、そして社長にした人事にも影響を及ぼしたといわれている。

 西室は日本郵政の定例会見で「本人(室町)が辞める、と言ったが、私は絶対、辞めてはダメだと頼んだ」と、その後の経営の混乱でやる気をなくした室町のネジを巻いたと述べている。自分がキングメーカーであることを内外に宣言したものと受け止められた。

 室町は西室がかつて引き上げてきた経緯がある。「東芝の未曽有の危機を表の『室町』、裏の『西室』の西室町体制で乗り切るための布石」と書いたマスコミがあった。室町体制は、実は西室の院政。社内外から西室町体制と皮肉交じりに評された。西室は相談役という以外、なんの権限もなかったが、東芝社内では“スーパートップ”と呼ばれていた。

 東芝の新しい社外取締役を引き受けた小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長(経済同友会代表幹事)、池田弘一・アサヒグループホールディングス相談役、前田新造・資生堂相談役は西室の財界人脈だ。「直接、口説いて社外取締役に就任してもらった」と西室本人が語っていた。小林が多忙を理由に難色を示していた社外取締役を最終的に引き受けたのは、西室が強く懇請したためだ。小林は現在、東芝の人事を司る指名委員会の委員長である。

東芝を助けてやってください」。猛暑だった15年の7月上旬、西室は小林、池田、前田のそれぞれのオフィスを訪ね、社外取締役への就任を頼み込んだ。小林にとって西室は財界の大先輩。西室の訃報に接し、小林は「日本のために最後まで活動したのは称賛すべき。希有な経営者だった」と高く評価した。池田は「アサヒビールが厳しかった時に助けてもらった。恩返ししたいので社外取締役を引き受けた」と述べた。西室が東芝の会長だった時に経営諮問委員会をつくったが、池田と前田は同委員会のメンバーだった。

 他の社外取締役、野田晃子、古田佑紀も西室が一本釣りした。公認会計士の野田は東芝で西室と同期。西室は法務省公安審査委員会委員を務めたことがあり、法曹界にも人脈が広かった。このネットワークに引っ掛かったのが元最高裁判事で弁護士の古田だった。東芝の現在の社外取締役の陣営は、まさに西室のお手盛り人事そのものだったのである。一相談役にすぎなかった西室は、東芝の闇将軍として君臨した。西室は第4代経団連会長を務めた土光敏夫が使っていた部屋に居座っていた。

 16年に室町が社長を退任する。西室は後継社長の候補のひとりだった副社長の綱川智を伴い、家電量販店を行脚した。綱川は西室の読み通り社長になった。さながらこれは、綱川の顔見世興行に西室が付き添ったといった図だった。

 その後、東芝は半導体子会社、東芝メモリの売却問題で迷走を続け、上場廃止の瀬戸際に追い込まれた。経営者は結果責任を問われてしかるべきだ。東芝をダメにしたA級戦犯は西室泰三、その人である。
(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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