ただ、何ごとにもプラスとマイナスがある。情報管理の厳格さが求められるにしても、IoTは生産性の向上に役立つことは間違いない。社会インフラや大規模な工場などの保守点検が省力化され、畜産や農業の生産性が向上する。算盤、電卓の代わりにコンピュータが普及した1970年代から1980年代にかけてと同じような変革がもたらされるに違いない。
かつての電子計算機がそうだったように、経済成長の起爆剤、と言いたいところだが、人口減少と高齢社会においては、落ち込みを抑制する役割を果たす。つまりIoTが人手不足や知識、経験を補足してくれる。容易に想像できるのは、コンビニエンスストアの深夜営業、自動車の事故回避、高齢者の介護といったシーンでの活用だ。企業にとってもワーカーにとっても“少子高齢時代の救世主”と言っていい。
「ものづくり」の概念が変わる
さて、2020年末までにはIoTに関連する技術や適用がピークに達すると仮定して、「IoTの先」にあるAIとソフトウェア・デファインド(SD:Software-Defined)については、どのように見ておけばいいだろうか。特段の裏付けがあるわけではないけれども、どうやら「諸手を挙げて歓迎」とはいかないのではあるまいか。
すでに指摘されているように、多くの仕事がAIに奪われる。専門的で複雑に見える仕事でも、分析すると一定のルールと手順の組み合わせであることが少なくない。単純作業はIoTに置き替わり、AIは金融、法律、医療といった分野の高報酬の職種をターゲットにするだろう。
もう一つのSDは、もっと激烈に産業や社会を変えていく。「ものづくり」の概念が根本から変わる可能性があるからだ。日本の製造業が世界に誇る「品質」は、素材の品質管理と部品の組立技術で成り立っている。ところが複数の部品で実現してきた「機能」がソフトウェア化されチップに内蔵されると、少なくとも組立技術のウエイトは低下する。「日本品質」は通用しなくなるかもしれない。
では「性能」はどうかというと、米テスラが好例だ。同社は試作車もなく生産拠点すら決まっていないのに、ネットで次世代電気自動車(EV)4万台の予約を獲得した。金額にすると2兆円だ。それを可能にしたのは、まさにSDだ。ハードウェアを買い替えなくても、ソフトウェアで機能が手に入る。「完全」がない自動運転技術の完成を待つより、いま手に入る製品を購入したほうがいい。そういう認識が広がっている。家電製品もソフトボタンで利用者が自分に合った操作手順や機能をセットできるようになるだろう。
買い替え需要が減衰すれば、新製品が売れなくなる。省資源社会に一歩近づくと言えなくもないが、日本の電機メーカーが「新機軸」を生み出せず、自動車メーカーが「完全」な自動運転技術にこだわり続ければ、再びガラパゴス状態に陥る。SDの流れに乗ったベンチャーが檜舞台でスポットライトを浴び、乗り遅れると大企業ですら存続が危うくなる。
AIが仕事を奪っても、人にしかできない別の仕事が生まれるかもしれない。楽観的に考えれば、面倒なことはAIに任せ、SDで省資源の暮らしを楽しめる。そうなるといいのだが。
(文=佃均/ITジャーナリスト)