みずほFGは派閥抗争に明け暮れた
みずほFGは2000年に富士銀行と第一勧業銀行、日本興業銀行が合併して誕生した。これまでも、最大手のMUFGの背中は遠かったが、二番手のSMFGに追いつき追い越せでやってきた。だが、今やSMFGにも大差をつけられた。
理由ははっきりしている。みずほFGの足跡は、3行による派閥抗争の歴史だったからである。みずほFGは3行の融和を優先させたため、持ち株会社のみずほFGの傘下に、みずほ銀行(BK)とみずほコーポレート銀行(CB)を置く「3トップ、2バンク」という、世界の金融機関では例を見ない、珍種のメガバンクとなった。
派閥地図を塗り替えたのはBKで起きた2度にわたる大規模なシステム障害だ。1回目は02年4月。BKはシステム統合に失敗した。統合の主導権を握った第一勧業銀行が、自行のシステムをゴリ押ししたことが原因とされた。富士銀行と日本興業銀行が手を組んで第一勧銀を追い落とした。現在、第一勧銀が主導権争いに加われないのは、このためだ。第一勧銀が脱落し、富士銀と興銀の対決となった。
富士銀を率いてきたのが、みずほFG社長・会長だった前田晃伸氏だ。興銀はCBの頭取・会長を務めた齊藤宏氏。テレビ局の女性記者との路上キスで写真週刊誌のターゲットとなった。ここまでは持ち株会社を拠点とする富士銀出身者が優勢だった。
2回目のBKのシステム障害は、東日本大震災直後の11年3月。BK頭取である富士銀出身の西堀利氏が引責辞任に追い込まれた。この時は興銀と第一勧銀が手を組んだといわれた。BKの2度にわたるシステム障害が、3トップ、2バンク体制を崩壊させた。
富士銀勢がシステム障害で勢いを失い、主導権を握ったのが興銀出身者だ。13年7月、CBとBKが合併して、新みずほ銀行が誕生した。興銀出身の佐藤康博氏が持ち株会社と中核銀行のトップを兼ねるワントップ、ワンバンク体制に移行した。
もともと、興銀、富士銀、第一勧銀の出身者の派閥があるのに、さらに元BK、元CBという新しい派閥が加わった。ワンバンクどころか5つの派閥に分裂したことになる。しかも、3つあったトップのポストは2つに減ったわけで、人事抗争が激化したのは当然の成り行きといえる。
派閥抗争でガバナンス(企業統治)が機能しなかった。これが、みずほFGが1人負けした最大の原因である。