BBCの録音した音の美しさに驚愕
そんな鬼のような存在のプロデューサーとの仕事のなかでホッとさせてくれるのは、プロデューサーの横で寡黙に座っている録音技師の存在です。僕は彼らと話すのが大好きです。少しでも良い音を録ろうとする彼らと、少しでも良い音をつくろうとする指揮者は、似ている部分があるのかもしれません。どちらも、自分では音を出さないという点も共通しています。
世界的音響デザイナーの豊田泰久氏が設計し、世界に誇る音響を持った札幌コンサートホール「Kitara」で、僕が札幌交響楽団を指揮していた時のことです。
制作をしていた北海道放送のクラシック音楽好き担当プロデューサーが、休憩中に面白い話をしてくれました。
「数年前、英ロンドンからBBC(英国放送協会)のオーケストラが、同じくBBCの録音技師とキタラホールにやってきて、演奏会を録音したいという話があったのです。僕は、放送局仲間ということで、ものすごくラッキーなことに、彼らが録音したての音をヘッドホンで聴く機会を得たのですが、聴いてみて驚きました。素晴らしい録音なんです。どうやって録ったのだろうと疑問に思い、僕はステージに急いで向かい、どんなマイクで録音しているのか確認に行きました。僕たちが手に入らないような最新式のマイクだろうかと思っていました。でも篠崎さん、僕はまた驚いたのです。BBCが使っていたマイクは、もう日本の放送局ではどこも使わない随分古いモデルだったのですよ。あんなおんぼろのマイクなのに、こんなに美しく音を録ることができる彼らの技術に感嘆するばかりでした。今でも、不思議です」
もちろん、BBCは録音だけでなく、海洋ドキュメンタリー番組『ブルー・プラネット』のような魔法のごとく美しい映像を撮る放送局でもあります。
その頃、僕はロンドンに本拠地を構えて、BBCのオーケストラをたびたび指揮していました。コンサートは毎回、BBCで全国ライブ放送。そして、たくさんの素晴らしいソリストとも録音をする機会もありましたが、BBCが録音した音は、その後、CDになったものもあるくらい、本当に立派なものばかりでした。
そんななか、北海道放送のプロデューサーの疑問は、僕自身の疑問となっていました。それに対する結論としては、「BBC自体も予算縮小を余儀なくされているようで、日本の放送局のように、やすやすと新しいマイクを買えないのだろう。しかし、それを高い技術でカバーしているのだろう」くらいに思っていました。
BBCが古いマイクできれいな音を録れるワケ
そんな時に、ドイツのデュッセルドルフ・フィルハーモニーと録音の仕事をすることになった。
録音には、ロンドンからプロデューサーと録音技師がやってきました。この録音技師の録った音も美しく、話を聞いてみると、「昔、BBCで仕事をしていた」と言います。そこで、僕は札幌での話をして、単刀直入にこう聞いてみました。
「BBCがとても古いマイクを使っていたそうだよ。日本ではどこでも使わないような代物なのに、その音はすばらしかったそうなんだ。おんぼろマイクでも、きれいな音を録るのは、やはり特別な技術があるからなのか」
するとパトリック・アレンという名の録音技師は、即答しました。
「あのマイクはね、確かに古いけれど、あれでないと、あの音は録れないんだよ。新しいマイクではダメなんだ。でも、もう売っていないから、BBCではあのマイクを大切に使っているんだ。靖男、ヴァイオリンでもそうだろう。ストラディヴァリウス(ヴァイオリンの世界的名器)は、古いけれど代わりになる楽器はないだろう」
これを聞いて、僕は言葉が出なくなってしまいました。僕が育った時代は、技術進歩が目覚ましく、どんどん新しいものが発売される時代でした。最初のうちこそ、「最近出てきたCDよりも、レコードのほうが音が暖かい」などと言っていましたが、その後、進歩のスピードがますます速くなり、人間が必死で追いかけるような感じとなっていました。
その結果、「新しいものは良いものなんだ」と思い込み、これまでの製品を振り返る余裕もなく、今年は画期的な新製品でも来年には古いものになっていく技術進歩のなかで、自分の五感で確認することをやめてしまったのかもしれません。
明治維新以来、欧米の技術が怒涛のごとく入って来た日本と違って、英国をはじめとしてヨーロッパは、中世から自分たちの手で技術進歩を遂げてきたわけで、進歩との付き合い方が成熟しているのです。つまり、文化が奥深く濃密なのだと思います。
そんなところで完成されたクラシック音楽芸術。僕も本腰を入れていかなくてはならないと覚悟を決めた大きな体験になりました。
(文=篠崎靖男/指揮者)