大島優子演じる伊藤兼子のちょっと“怪しげな”系譜
NHK大河ドラマ『青天を衝け』第34回(11月7日放送)から、伊藤兼子(かねこ/演:大島優子)が登場。第36回(11月21日放送)に渋沢栄一(演:吉沢亮)の妻・千代(演:橋本愛)が死去すると、第37回(11月28日放送)に兼子と再婚するのだ。
伊藤兼子は豪商・伊藤八兵衛の娘として生まれた。八兵衛はもともと武蔵川越の農家の出で、江戸小石川伝通院の伊勢屋長兵衛に奉公に出て才覚を認められ、その一族・伊藤家の婿養子になった。巷間伝わる説によれば、「八兵衛は江戸でも指折りの豪商であったが、事業に失敗して没落」したという(NHK出版『NHK大河ドラマ・ガイド 青天を衝け 完結編』より)。
ただ、ちょっとその評判に不審な点もある。
明治7(1874)年の長者番付(個人蔵)によれば、末尾に本家の伊勢屋長兵衛の名前が見えるくらいで、八兵衛の名前を見つけることはできなかった。三井の三野村利左衛門(演:イッセー尾形)が特別待遇で載せられており、それくらいじゃなきゃ「江戸でも指折りの豪商」とはいえないんじゃないかな? と思うのは筆者だけだろうか(Wikipediaによれば、この年に伊藤八兵衛は乗合馬車会社を創業しており、まだ没落していないようだ)。
ともあれ、兼子は父の没落後に芸妓の道に進み、1883年に栄一の後妻に迎えられた。当時、栄一が住んでいた深川の邸宅は、兼子の実家が没落時に手放したものだったという。
栄一の孫・渋沢華子の著書『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと』(国書刊行会)によれば、栄一ははじめ湯島に住んでいたが、大蔵省に通勤するには不便なので、1871年に神田小川町(神保町)の官有地に引っ越し、のちに払い下げを受けた。1873年に日本橋兜町に土地を借り、家を建てたが、1876年に深川福住町に家を買って引っ越した。この深川の家のことだろうか。
ただし、兼子の孫でもある華子がそのことについて附言していない。実の孫が披瀝していないエピソードって「ホントかな」と疑問に思ってしまう。
また、兼子の姉妹が高梨伯爵と皆川伯爵に嫁いだという噂もあるが、旧華族の家系図を収めた『平成新修 旧華族家系大成』(霞会館)、候補者を列記した『<華族爵位>請願人名辞典』(吉川弘文館)には高梨・皆川という華族が採録されていない。そんな華族はいなかったし、候補にもなっていなかったということだ。
渋沢栄一の後妻・兼子の子ども1…渋沢武之助は東京帝大法科の“自由奔放なお坊ちゃん”
兼子は少なくとも5男1女に恵まれた。再婚後すぐに生まれた敬三郎、末男・忠男は早世したが、4人の子は立派に育った。
栄一の三男にあたる渋沢武之助(1886~1946年)は旧制第一高等学校(通称・一高)仏法科を卒業後、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を退学し、石川島飛行機製作所(現・立飛ホールディングス)社長、大島製鋼所取締役、浅野セメント(現・太平洋セメント)取締役、日本醋酸製造監査役、東京石川島造船所(現・IHI)監査役などを歴任した。
母の「兼子は結婚後、流産、新生児夭折(ようせつ)が続き、三男の武之助はやっと成長した初めての子であったため大切に扱われ、いささか我儘(わがまま)というか自由奔放、小智才覚とは縁遠いおおらかなお坊ちゃん育ち」だったようだ(鮫島純子『祖父・渋沢栄一に学んだこと』文藝春秋)。
それでも渋沢一族で初めて東京帝大に入ったんだから、栄一はさぞ喜んだことだろう。
渋沢栄一の後妻・兼子の子ども2…渋沢正雄は起業に大失敗した後、いすゞ自動車の設立に尽力
四男・渋沢正雄(1888~1942年)は一高の英法科から東京帝国大学法科大学経済科(現・東京大学経済学部)を卒業し、1915年に第一銀行に入行した。
栄一は数多くの企業を設立したが、やはり第一銀行を渋沢家の家業と考えていたようだ。子どもの誰かに銀行を任せたかったのだろう。次男の渋沢篤二を後継者と考えていた時期もあったのだろうが、1913年に廃嫡してしまった(渋沢家の家督相続人から廃す)ので、正雄に一縷の望みを託したのかもしれない。
ところが、正雄は2年後に退職して渋沢貿易会社を興す。さんざん企業を創ってきた栄一の子どもである。レールを敷かれた人生より、起業を選んだのだろう。だが、起業は2年も持たず、1919年に破綻。謹慎の後、1922年に東京石川島造船所取締役に就任した。飛行機・自動車部門への進出を主担当としていたようで、1924年に石川島飛行機製作所を設立して初代社長に就任した。また、1929年に石川島自動車製作所(現・いすゞ自動車)の設立に尽力し、初代社長に就任している。
正雄は富士製鋼の社長を兼ねていたが、1934年に国内の製鉄会社が大同合併して日本製鉄が設立されると、兼職を辞して日本製鉄の経営に専心し、常務・八幡製鉄所長に就任した。
所長職は激務だったらしい。「渋沢所長は八幡に行ってわずか三、四カ月後、東京の知人がたずねて行ったところ、げっそりやせていたので、その知人はなるほど八幡というところは噂にたがわず、むずかしいところらしいと感じたそうだが、在任一年余りで昭和十七年九月十日、名古屋の病院でなくなってしまった」(小森田一記 『渡辺義介伝 三鬼隆伝』東洋書館)。
渋沢栄一の後妻・兼子の子ども3…渋沢秀雄は田園調布開発に携わった後、クリエイティブな才を生かし東宝会長に
五男・渋沢秀雄(1892~1984年)も一高の仏法科に進んだ。科は違うが同期に作家の芥川龍之介、久米正雄、歌人の土屋文明がおり、本人も文学方面に興味があったようだ。
東京帝国大学法科大学仏法科(現・東京大学法学部)に進んだものの、2年目に「法科から文科に移って、フランス文学を専攻したくなった。そこで両親に話したところ、(中略)父はこんな意味のことを言った。『お前は法律を勉強して、大学を卒業するだけの能力を持っているらしう見受けられるから、今のまま法科を卒業して実業界で働いてもらいたい。文学や絵画は趣味の程度にとどめておいてくれないか。これは命令ではないよ。儂(わし)が頼むのだよ。』高圧的に相成らんと言われれば、気の弱い私でも反発したろう。しかし社会の公人であり一家のオールマイティーである父に拝み倒されると、私は意気地もなく腰砕けになってしまった」(渋沢秀雄『明治を耕した話―父・渋沢栄一』青蛙選書)。
秀雄は1917年に卒業すると日本興業銀行(現・みずほ銀行)に入行した。兄・正雄が起業する年なのだが、まだ第一銀行に在職していたのかもしれない。兄が退職していたら、やっぱり第一銀行に入れられて、やっぱり退職しているだろう。なぜなら入社2年目に「中耳炎を患い、数カ月も欠勤したので退職した」(上掲書より)というのだ。渋沢兄弟は揃いも揃って銀行業に向いていなかったらしい。
そして、1919年に「父が創立発起人総代になった田園都市株式会社へ入れて貰う。銀行や会社に興味の持てない私も、町を造る会社という点に惹かれたからだ。その準備に私費(といっても父から貰ったものだが)でアメリカとヨーロッパを一巡し、郊外住宅地、工場住宅地、田園都市などを見学してきた」(上掲書より)。帰国後、秀雄は同社取締役に就任した。
田園都市株式会社という風変わりな名前のこの会社は、大正時代の初めごろ、渋沢栄一が商工会議所会頭としてアメリカを視察し、帰国後に「日本でも田園都市というものをつくったら面白い」との発想から、その構想の実現のために設立したものである。そして、田園調布に約40万坪、さらに洗足に約5万坪にのぼる土地を買収して、田園都市計画を立ち上げた。日本で最も有名な高級住宅街・田園調布を開発したのは、渋沢栄一だったのである。
1928年から秀雄は油絵を春陽会に出品し、1936年には処女作『熱帯の旅』(岡倉書房)および『父を偲ぶ』(社会教育協会)を刊行。随筆作家としても活躍しはじめる。
渋沢家の御曹司で、エンターテインメントに造詣が深い人材を世間が放っておく訳がない。1937年に東宝の前身・東宝映画が設立されると、秀雄はその監査役に就任。その翌年には東京宝塚劇場取締役会長に就任。東京宝塚劇場と東宝映画が合併して東宝が誕生すると、秀雄はその会長に就任する。第二次世界大戦が終戦を迎え、東宝会長の辞任を余儀なくされると、今度は東映が取締役に招聘してくれる。やはり「芸は身をたすく」である。
戦後は東映の役員を務めながら、各種の審議会にひっぱりだこで、日本民間放送連盟民間放送番組審議会委員(つまり、テレビ局開局の審議会)に就任し、以降、テレビ・放送関連の審議会、委員会を歴任。東京放送(TBS)、日本教育テレビ放送(全国朝日放送、テレビ朝日)の設立に関わった。
随筆集などを50冊近くの書籍を刊行し、1973年からは松坂屋で毎年絵画個人展を開催するなど、めぐまれた人生を送った。
文才に恵まれ、渋沢栄一をネタに著作を著した多くの子孫たち
渋沢秀雄はクリエイティブな仕事を謳歌していたように思えるのだが、彼の兄たち(篤二、正雄)も本当は銀行じゃなくてクリエイティブな仕事がしたかったんだろう。栄一の子どもに生まれたから、銀行に入るように仕向けられたんだが、本当は起業したり、エンターテインメントに従事したかったのかもしれない。
「秀雄が篤二家を訪ねると、当の本人は大きな邸に猟犬を飼い愛人と何不自由なく趣味甚として暮らしている。秀雄は『廃嫡はよいもの』と羨ましく思ったという」(『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと』)。
秀雄が随筆家として成功したのみならず、渋沢一族は文才に長けた人物が多い。著者が知るだけでも以下の人物が、父や祖父をネタにして著作をあらわしている。文才があって話題になる人物が親族にいるんだから、羨ましいことこの上ない。廃嫡された篤二もそういう道に進みたかったに違いない。
●次男・篤二の孫 渋沢雅英 『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1966年)
●四男・正雄の娘 鮫島純子 『祖父・渋沢栄一に学んだこと』(文藝春秋、2010年)
●五男・秀雄の娘 渋沢華子 『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと』(国書刊行会、1997年)
●長女・歌子の孫 穂積重行 『明治一法学者の出発――穂積陳重をめぐって』(岩波書店、1988年)
●次女・琴子の孫 阪谷芳直 『三代の系譜』(洋泉社、2007年)
なお、⻑⼥・歌⼦の日記『穂積歌子日記 明治23-30年 1890-1906 明治一法学者の周辺』(みすず書房)が孫の重行の手によって刊行されている。これだけよってたかって出版しているので、筆者の見落としがまだまだあるかもしれない。
ちなみに小説家・評論家として有名な澁澤龍彦は、渋沢宗助(演:平泉成)の子孫にあたる(渋沢栄一直系の子孫ではないのだ)。
(文=菊地浩之)