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渋沢栄一の起業仲間たち…ホテルオークラ創業者の父、セメント王・浅野総一郎、西園寺公成

文=菊地浩之
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12月26日に最終回を迎える、NHK大河ドラマ『青天を衝け』。登場人物の衣装も、和装から洋装へと変化し、吉沢亮演じる渋沢栄一も断髪、ツヤッツヤの七三分けに。七三分けにしても美しい吉沢亮……眼福です。(画像は同番組公式サイトより)

『青天を衝け』で総動員された、渋沢栄一の“ゆかいな仲間たち”のご婦人たち

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第34回(11月7日放送)では、来日する前アメリカ大統領一家の接待のため、政財界のご婦人たちが総動員された。

・渋沢栄一(演:吉沢亮)夫人  千代(演:橋本愛)
・渋沢喜作(演:高良健吾)夫人 よし(演:成海璃子)
・大隈重信(演:大倉孝二)夫人 綾子(演:朝倉あき)
・井上 馨(演:福士誠治)夫人 武子(演:愛希れいか)
・益田 孝(演:安井順平)夫人 栄子(演:呉城久美)
・大倉喜八郎 夫人       徳子(演:菅野莉央)

 奥サマ同士を引き合わせるくらいだから、当然、ダンナさんたちも仲が良かった(岩崎弥太郎夫人がいないことが象徴的だ)。

多くの他者と協業で起業しまくった渋沢栄一、なんと29社で取締役を務める

『企業家ネットワークの形成と展開』(2009年、名古屋大学出版会)という書籍によれば、明治31(1898)年当時、もっとも多くの企業で役員に選ばれていたのは、渋沢栄一だという。その数、29社。取締役といえば、当該企業に常勤しその企業のためだけに仕事をしているイメージがあるが、1日1社に出向いても1カ月のスケジュールが埋まってしまう。栄一が務めた取締役は、われわれからすれば相談役みたいなイメージだろう。

 なお、その主な企業は下記の通りで、そのほとんどは栄一が設立にかかわっている。

・第一銀行    (現・みずほ銀行)
・日本鉄道    (現・JR東日本)
・東京海上保険  (現・東京海上日動火災保険)
・帝国ホテル
・東京瓦斯    (東京ガス)
・王子製紙    (現・王子ホールディングス)
・東京石川島造船所(現・IHI)
・札幌麦酒    (現・サッポロビール/サッポロホールディングス)

 しかしこれらの企業は、栄一がひとりで創りあげたものではない。いわゆる「合本」(がっぽん)で出資者を募ったり、他者から設立を持ちかけられたり、多くの関係者との協業で創りあげたものだ。

 その結果、栄一と仲のよい企業家たちは、栄一と一緒にその企業の役員を務めている。

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明治・大正期の実業家、大倉喜八郎。大倉財閥の設立者で、息子の喜七郎はホテルオークラの創始者。「世にもまれな商傑」と評価の声がある一方、鉄砲商として身を立てたため「死の商人」という異名も。(画像はWikipediaより)

ホテルオークラ創業者の父・大倉喜八郎は「オレは銀行はやらない。だから栄一クン、頼むよ!」

 たとえば、大倉喜八郎は5つの企業で栄一と役員会をともにしている。その5社とは、帝国ホテル、北越鉄道、北越石油、札幌麦酒(ビール)、函館船渠(ドック)である。

 大倉喜八郎(1837~1928年)は栄一より3歳年長で、越後(新潟県)新発田藩の質屋の子に生まれた。両親を早くに失ったため、江戸に出て商人となり、鉄砲商に転身、戊辰戦争で官軍・幕軍の双方に武器を売り、明治維新後は台湾出兵や日清・日露戦争で軍需品の調達に貢献。日本有数の富豪となった。

 幕末維新期に一代で巨万の富を得たのは、三菱財閥の岩崎弥太郎と相通ずるところがある。弥太郎は自ら事業を創りあげることは少なく、他者から譲り受けたものを大きく育てて財閥を形成したのだが、喜八郎は新しく起業することが好きで、その興味のおもむくところが、業種も地域もバラバラだった。

 財閥としては珍しいホテル事業(帝国ホテル、川奈ホテル、赤倉観光ホテル)や、中国・北海道(札幌麦酒、函館船渠)への事業展開はその最たるものだろう。

 そのため、喜八郎の死後、番頭たちは「とっ散らかった」事業を整理することから始めなければならなかった。しかも、跡を継いだ2代目・大倉喜七郎が、父に似て「守成の人ではなかった」ので、不満タラタラで終戦を迎えたという(終戦後、その喜七郎がホテルオークラを創ったりして大活躍することになるのだから、世の中わからない)。

 考えてみれば、喜八郎はいろんな事業に手を出す点で渋沢栄一と似ているのだが、その一つひとつが小粒で、かつどちらかといえばマイナーなので、「えっ? あれも渋沢栄一が創ったの?」というような驚きがない。残念な人物だった。

 後述する浅野総一郎は栄一との強い関係が有名だが、喜八郎と栄一がとりわけ親しかったという話は、あまり聞いたことがない気がする。

 ただ、喜八郎は栄一――というより第一銀行――に興味があったに違いない。喜八郎はいろんな事業に興味を持っては手を出したのだが、どういうわけか銀行業だけには手を出さなかった。番頭たちが銀行設立をいくら勧めてもガンとして聞かなかったという(一説によると、「オレは他人からカネを借りて事業するんであって、そのオレが金貸しを始めちゃったらツジツマが合わない」というようなことを言っていたらしい)。

渋沢栄一ともっともビジネスをともにした男・浅野総一郎、セメント王として浅野財閥を形成

青天を衝け』の「ご婦人たち総動員の巻」には出てこないようなのだが、渋沢栄一ともっともビジネスをともにしていたのは浅野総一郎だ。実に10社で、栄一とともに役員をしていた。

 総一郎には、同郷の安田善次郎という銀行家がバックについていたので、第一銀行にはあまり興味がなかったらしい。しかし、総一郎にとって栄一は、いわばビジネスの師匠だった。成功を収め、財閥を形成した晩年になっても、栄一が地方で講演をすると、何かビジネスのタネになるような話があるかもしれないと、どんな僻地にも足を運んで聴きにいったというから恐れ入る。

 初代・浅野総一郎(1848~1930年)は栄一の8歳年下で、越中(富山県)の医師の子として生まれた。10代で事業を志したが失敗。高利貸への返済が滞り、夜逃げ同然で上京。商売を転々として石炭商となった。横浜瓦斯(ガス)局に廃棄されていたコークス・コールタールを買い取り、石炭の代用物として官営深川セメント製造所に売却したところ、大きな利益を得た。
その噂を聞いた王子製紙所が同じようにやってみたが、うまくいかず、総一郎がコークスを引き取った縁で、石炭を納入することになった。渋沢栄一は王子製紙所の創業者なので、総一郎の働きぶりを聞いて面会を希望。総一郎は栄一の信頼を得て、助言と援助を受けるようになった。

 総一郎は栄一の援助で深川セメント製造所の払い下げを受け、浅野工場を設立。これが後に浅野セメント(のち日本セメントを経て、現・太平洋セメント)へと発展。総一郎は「セメント王」として浅野財閥を形成した。

 セメント事業が軌道に乗ると、総一郎は石炭商の経験を活かして炭鉱業に進出。「山師」の総一郎は福島県磐城で鉱脈を見つけると、渋沢栄一を説得して大倉喜八郎らと合本で磐城炭鉱(常磐ハワイアンセンターの前身)を設立、炭鉱経営に乗り出した。

 出炭に成功するものの、彼の地は当時まだ汽車も走っていないような地域で、どうにか海岸まで鉄道を敷いたが、海路は三菱が独占して運賃が高い。栄一や三井らが三菱に対抗して共同運輸会社を設立すると、総一郎もこれに加わった。岩崎弥太郎が憤死して、三菱の海運事業と共同運輸会社が合併、日本郵船ができたが、運賃は期待ほどには下がらなかった。そこで、総一郎は再び栄一を説き伏せて海運会社・東洋汽船を設立した。

 そんなわけで、磐城炭礦や東洋汽船などで、浅野総一郎と渋沢栄一は役員席を同じくしたわけだ。

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明治・大正期の実業家、浅野総一郎。一代で財閥を築き、“日本のセメント王”と称された。(画像はWikipediaより)
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栄一の長女、歌子は穂積陳重と結婚。陳重はわずか26歳で東京大学教授兼法学部長に就任した、宇和島藩きっての秀才であった。また、歌子の長女・孝は、てい(栄一の妹)の子・渋沢元治と結婚している。戦前は近親結婚が多かった。

渋沢栄一が旧宇和島藩主・伊達宗城に仕えた縁で、子も孫も第一銀行に勤務した西園寺公成

 渋沢栄一と同一企業で役員を務めていたのは、1位が浅野総一郎の10社、2位が西園寺公成の6社、3位が大倉喜八郎の5社。以下、原六郎・梅浦精一の4社と続く。

……ん!? 西園寺公成? 総理大臣がなぜこんなところに!

 西園寺公成(さいおんじ・きんしげ。生没年不詳)。総理大臣の西園寺公望(きんもち)と1字違いだが、血縁関係はまったくない。南北朝時代に伊予(愛媛県)にわたった西園寺家の末裔を自称し、江戸時代は伊予宇和島藩士として松田姓を名乗っていたのだが、明治維新後に西園寺に復姓した。

 渋沢栄一が官庁勤めをしたときの上司が、旧宇和島藩主・伊達宗城(むねなり/演:菅原大吉)だった縁で、栄一は伊達家の財政顧問のようなことを任された。

 その縁で、栄一の長女「歌子」は宇和島藩きっての秀才・穂積陳重(ほずみ・のぶしげ)と結婚。公成は第一国立銀行に入行し、1873年から1904年まで同行の取締役を務め、東京石川島造船所、磐城炭礦、東京瓦斯などの役員を兼務した。のみならず、次男の西園寺亀次郎も第一銀行の取締役、常務に就任。孫の西園寺実は第一銀行の副頭取まで出世している。

 同じように、旧宇和島藩士の八十島親徳(やそじま・ちかのり)は、渋沢家の執事のようになり、渋沢倉庫専務を務めた。その子・八十島親義(ちかよし)は第一銀行に入行、常務に昇進した後、渋沢倉庫の社長に転出。第一銀行が日本勧業銀行と合併交渉を行う際の密使として活躍した。

 たった数年間、旧藩主が渋沢栄一の上司だったというだけで、渋沢家・第一銀行に代々仕え、戦後の合併工作にまで関与しているのだから、まさに「縁は異なもの」である。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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