渋沢栄一、日本初の“銀行”、第一国立銀行を設立す
NHK大河ドラマ『青天を衝け』第31回(10月17日放送)で、渋沢栄一(演:吉沢亮)は上司の井上馨らとともに大蔵省を退官。三井組・小野組に共同出資を仰ぎ、第一国立銀行を開業する(日本初の銀行)。時系列でたどると以下のようになる。
1873/5/7 栄一と井上馨らが大蔵省に辞意を表明
1873/5/23 栄一と井上馨らが大蔵省を退官
1873/6/11 第一国立銀行の創立総会を開催
1873/7/20 第一国立銀行が開業免状を得る
1873/8/1 第一国立銀行が開業式を行い、正式に発足
頭取は三井家と小野家当主の2人、副頭取も三野村利左衛門(演:イッセー尾形)と小野組の番頭・小野善右衛門(演:小倉久寛)の2人が選任され、月番で交替した。そして、栄一がそれらの上に総監役として就任した。ところが、翌1874年11月に小野組が破綻してしまったため、1875年8月に渋沢栄一が頭取に就任。栄一が実権を握った。
日本銀行が設立され、国立銀行は普通銀行への転換を余儀なくされる
この国立銀行は、「国立銀行券」という紙幣の発行権を持っていた。しかも、この国立銀行とは1行2行ではなく、全国各地に百数十行が設立された。各行が独自に紙幣を発行するので、当然インフレを助長することになる。
そこで政府は1882年に日本銀行を設立して、紙幣の発行を日本銀行のみとした。国立銀行は設立20年後に発行権を喪失し、普通銀行に転換することを余儀なくされた。かくして、1896年に第一国立銀行は第一銀行へと普銀転換したのである。
第一銀行、三井銀行と“結婚”す……「もともと三井資本同士、一緒になりましょ」
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、金融当局の強い指導のもと、巨大銀行に合併が勧奨される。1942年12月、第一銀行と三井銀行は合併交渉を始め、わずか2時間で基本条件に合意したという。第一銀行は創立時に三井家に出資されたこともあり、シンパシーがあったのだろう。1943年4月に帝国銀行発足。今だったら「第一三井銀行」になるところだろうが、当時は2社の名前をくっつける風習があまりなく、帝国銀行と改称した。
第一銀行、三井銀行と“離婚”す……大卒行員の少なさが招いた悲しき“学歴差別”
戦後、1948年に帝国銀行は第一銀行と三井銀行(当時の名称は帝国銀行)に再分離した。
1945年に第二次世界大戦が終結し、日本が敗戦国となると、GHQ(連合国軍総司令部)による日本占領が始まり、財閥解体の嵐が吹き荒れた。しかし、帝国銀行の再分離は財閥解体とは関係がない。これは財閥解体の謎のひとつといわれているのだが、財閥解体は軍需産業(つまりは製造業および商社)を徹底的に解体したものの、金融機関についてはまったく手を触れなかった。帝国銀行の再分離は、同行の自発的な解体だったのだ。
ではなぜ再分離したのか。
分離に至った理由は、第一銀行のほうが店舗数は多かったが、三井銀行に比べて大卒行員が少なかったため、徐々に支店長職が三井銀行出身者に浸食されていったからだといわれている。また第一銀行の顧客も、三井銀行の顧客に比べて融資面で冷遇されたようだ。
第一銀行、三菱銀行と“婚約”するもあっという間に“破談”…そして日本勧業銀行と合併へ
1969年元日、読売新聞は第一銀行と三菱銀行の合併交渉をすっぱ抜き、1月7日に第一銀行と三菱銀行は正式に合併を発表した。これより少し前に古河家と岩崎家の結婚式があり、席を並べた両行の頭取が「銀行も一緒になっちゃいましょうか」とうそぶいたことから合併交渉が始まったのだという。
第一銀行頭取・長谷川重三郎(じゅうざぶろう)は渋沢栄一の隠し子といわれ、行内ではエリート・コースを歩み、あたかもオーナー頭取のように権勢を振るった。独断で合併推進した長谷川には、行内を抑えきる絶対の自信があったようだ。
ところが、前頭取の井上薫(もちろん井上馨とは別人)は、三菱銀行との合併に異を唱え、徹底的な反対運動を展開する。
まず、古河・川崎グループなど古くからの融資先企業に根回しをして、「三菱にのみ込まれる」と外部から合併反対の声を上げさせた。次に支店長たちにも反対の声を上げさせ、さらに総会屋をも煽動して取締役に圧力をかけさせた(総会屋とは、株主総会で暴れたり、総会の議事進行を円滑に進めさせたりすることで、当該企業から資金援助を得る者で、この依頼が後に問題となる)。
1月13日、第一銀行は行内反対を抑えることができず、わずか1週間で合併を撤回。責任をとって長谷川は辞任。井上が頭取に復帰した。
巨大銀行の誕生には金融当局も含めて期待する声が大きく、それを阻止した井上に批判が集中した。しかし井上が三菱銀行との合併に反対したのは相手が悪かったためであり、合併自体に反対したわけではなかった。密かに他行との合併を模索し、日本勧業銀行と合併交渉を水面下で進めた。1971年、第一銀行は日本勧業銀行と合併し、国内最大規模の銀行、第一勧業銀行が誕生した。
第一勧業銀行、総会屋とのつながりで利益提供事件勃発、逮捕者、自殺者も
井上薫が三菱銀行との合併を阻止するため、総会屋・木島力也に協力を依頼したことで、木島は第一勧業銀行に対して隠然たる影響力を持つようになった。
1997年5月、木島の弟子・小池隆一が野村証券の株式30万株を所有し、大株主という立場を利用して、不正取引を要求していたことが発覚。問題はその原資が第一勧業銀行からの迂回融資だったことだ。木島が小池へ融資を依頼、第一勧業銀行はそれを断り切れなかったのだ。
6月5日、総務担当の元常務ら4人が逮捕。6月10日に審査担当の元副頭取ら4人、6月13日にも2人が逮捕されてしまう。6月28日に元会長・宮崎邦次(くにじ)が東京地検特捜部の取り調べ後、翌29日に自宅で首を吊って自殺。7月4日に前会長・奥田正司が逮捕され、捜査は終結を迎えた。
この事件は高杉良の小説『呪縛――金融腐敗列島』のモデルに取り上げられ、映画にもなって、一躍有名となった。
第一勧銀、富士銀行・日本興業銀行から“W求婚”されモテモテ…ついにみずほ銀行誕生す
1990年代中盤、バブル崩壊で大手銀行が経営不振に陥り、大量増強を図る合併が模索された。
富士銀行(旧・安田銀行)は、系列の安田信託銀行(現・みずほ信託)の経営危機を単独で救済できないと、第一勧業銀行に救援を要請。この安田信託銀行救済策を通じて、富士銀行は第一勧業銀行に本体同士の合併を申し入れた。同時期に日本興業銀行も第一勧業銀行に合併を申し入れていた。
なぜ第一勧業銀行がこんなにモテモテだったかというと、利益提供事件で上層部が軒並み逮捕され、口うるさいOBが一掃されてしまっていたからだ。相手にとっては御しやすいとみられたのだろう。
ところが、第一勧業銀行は合併銀行の悲哀を味わっていたため、合併には慎重であった。
しかし、第一勧業銀行頭取・杉田力之(かつゆき)は「2行ならダメでも、3行なら旧行対立は生まれないだろう」と判断、富士銀行・日本興業銀行の頭取を引き合わせ、3行合併を提案した。
1999年8月に3行は、共同持株会社の設立と経営統合を発表。2000年9月に3行が持株会社・みずほホールディングスを設立して、その完全子会社となる。そして、2002年4月にみずほ銀行とみずほコーポレート銀行を設立した。
この3行を2行に統合するという不可思議な企業再編は、みずほホールディングス、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行3社のトップを旧3行で分け合うための対等合併の弊害だと噂された。こんな不自然な体制がうまくいくはずもなく、2011年3月の大規模なシステムトラブルが発生すると、金融庁は業務改善命令を発し、再統合を示唆。
2013年にみずほ銀行とみずほコーポレート銀行が合併し、新生・みずほ銀行が誕生した。
みずほ銀行は、第一勧銀と富士銀、日本興銀の3行合併ではなく、実は“4行合併”ではないのか
ご存じの通り、「3行なら旧行対立は生まれないだろう」という希望的な観測は、無残にも打ち砕かれた。
富士銀行・日本興業銀行の行員は、まず合併交渉でその洗礼を受ける。合併交渉では各行の代表者が一堂に会して協議するのだが、第一勧業銀行は絶対にその場で物事を決めない。協議の場に参加した行員が旧第一銀行出身だった場合は、銀行に戻って旧日本勧業銀行出身者の合意を取り、逆の場合も同様に合意を取った。しばらくして、その実態を知った富士銀行・日本興業銀行の行員は「これでは3行合併ではなく、4行合併だ」と嘆いたという。
第一勧業銀行が合併して、すでに28年が経っていたにもかかわらず、両行は融合できていなかったのである。みずほが合併してまだ20年弱。真の融合への道は、まだまだ遠いのかもしれない。
(文=菊地浩之)