渋沢栄一の“公式の子”は六男四女、計10人…“非公式”の子のなかには第一銀行の頭取も
「女遊びは芸の肥やし」という言葉は死後になりつつある。女性関係のスキャンダルが報じられると、あっという間にテレビ番組のレギュラーを降板、謹慎。ヘタをするとそのまま引退かという勢いである。
そうした世相を気にしてか、NHK大河ドラマの主人公にも愛妻家で、女性関係がハデでない人物が好まれる。『軍師官兵衛』の黒田官兵衛しかり、『麒麟がくる』の明智光秀しかりである。
ところが、今年の『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一は艶福家である。正妻以外にもたくさんの子どもがいらっしゃる。そういう話がネットでもひところずいぶん話題となった。ただし、ネットの記事はいずれも噂の域を出ず、渋沢栄一に実際には何人の子どもがいたのか列挙したものを寡聞にして知らない。そこで、確認できるところで、何人いるのか、以下に挙げていこう。
表に見るように、わかっているだけで18人の子どもがいた。
渋沢栄一(演:吉沢亮)は安政5(1858)年に18歳で、従姉妹の千代(演:橋本愛)と結婚。二男三女をもうけるのだが、千代は明治15(1882)年に39歳の若さで死去してしまう。そこで、栄一は翌明治16年に伊藤兼子(かねこ)28歳と再婚。五男一女をもうけた。計六男四女が渋沢栄一の公式のお子さんである(栄一の曾孫の方にお目にかかったことがあるのだが、それ以外の子・孫は親族会のメンバーではないとのことである)。兼子の第一子・敬三郎はなぜか公式のお子さんにカウントされていない。あくまで想像の域を出ないが、非公式にお付き合いしていた時期があったのではないか。
そして、それ以外に少なくとも7人のお子さんがいらっしゃる。もっとも、認知されていたのは16人目の川崎まつまでで、長谷川重三郎は認知されておらず、同様に認知されていない子どもが何人かいたはずである。重三郎という名前は13番目の子というシャレなのだが、男女あわせると17番目なので、十三男という意味なら、あと5人の男子がいたことになる。なお、弟の藤四郎(とうしろう)は14番目というシャレだと思われる。
この長谷川重三郎は、栄一がつくった第一銀行(現・みずほ銀行)でエリートコースを進み、頭取になったのだが、あたかも自分がオーナーとばかりに、単独で三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)と合併を決め、それが行内で猛反発を買って、結局、合併撤回、自らは退陣を余儀なくされた(ちなみに重三郎の子は三菱銀行に入って、その役員となった)。
ネットで批判に晒されているのは、栄一がお妾サンを正妻と同じ家に住まわせている、いわゆる妻妾同衾(さいしょうどうきん)だったことだ。今では信じられないと思うのだが、武家時代では決して珍しいことではなかった。なぜかといえば、江戸時代の商家の事例にそのヒントがある。
商家では別宅にお妾サンを囲って、そこで子どもを育てることが少なくなかった。しかし、そこには落とし穴があった。本妻には女子しかおらず、妾宅に男子がいる。そういった場合、妾宅の男子を跡取りにすればよいのだが、従業員が反対するのだ。なぜかといえば、江戸時代の商家では従業員の多くが住み込みなので、子どもの頃から接している本妻の女の子に愛着が沸く。その子をさしおいて、ヨソから連れてきた子を跡取りにするのは納得がいかないというわけだ。武家社会では跡取り問題は非常に重要なファクターである。なので、妻妾同衾のほうが望ましい。栄一には正妻に男子がいたのでその必要性はなかったのだが、当時の風習でそうしたのだろう。
最後の将軍、徳川慶喜は、十男十一女、計21人の子に恵まれた
艶福家といえば、渋沢栄一の主の徳川慶喜(演:草なぎ剛)も負けていない。十男十一女、計21人のお子さんがいらっしゃった。結婚当初、正室の美賀子は嫉妬深く、ヒステリックで大変だったようだが、その後、夫婦仲は円満に落ち着いて、子どもも授かった。ただし、いずれも早世したといわれ、カウントされていない。慶喜が将軍職を継いだあたりは京都に単身赴任だったので、何人か側室がいたようなのだが、朝敵とされ、謹慎するときに2人の側室以外は整理されたという。
その2人のうちのひとり、新村信(しんむら・のぶ)は慶喜の小性・新村猛雄(たけお)の養女で、同じく猛雄の養子の新村出(いずる)は『広辞苑』の編纂者として有名である。
もうひとり、中根幸(なかね・こう)は旗本の中根芳三郎の娘である。中根姓といえば、一橋徳川家の用人・中根長十郎(演:長谷川公彦)が有名だが、ごく近い一族ではないらしい。
2人の側室は、「夜のお相手も一晩交替」だったという。なんて律儀な……? この2人は非常に仲が良くて、どちらの子どもなのかまったく意識せず、分け隔てなく接していた。現代人には理解できない感性がそこにはある。
ただ、よくよく見ると、新村信の子女のほうがいいところに縁付いている。伏見宮妃や徳川御三家・御三卿夫人、慶喜の跡継ぎ・徳川慶久(よしひさ)も信の子だ。側室同士は分け隔てなく接していても、父・慶喜は母を見て選り分けていたのかもしれない。
成人した慶喜の娘はいずれも華族(+皇族)に嫁ぎ、息子は華族の養子か、華族に列するかのいずれかである。勝海舟は息子が早く死に、孫娘しかいなかったので、慶喜の七男・慶久を婿養子に欲しいと慶喜に打診すると、「アレは我が家の跡取り息子だから」と断られ、十男・精(くわし)を養子にした。
慶喜の子は一字の漢字で「シ」で終わるケースが多い。長男から三男までバタバタと早世してしまい、慶喜はショックだったらしい。四男の厚(あつし)が早世しなかったので、「シ」で終わる名前の男子は長生きすると考え、五男以降は博(池田仲博)、斉(ひとし)、久(徳川慶久)、寧(やすし)、精と命名した。唯一の例外は誠(まこと)なのだが、彼が一番長生きしたのだから、世の中わからない。
子どもはいずれも華族に列したのだが、最後に爵位をもらったのは誠だった。慶喜はよほどうれしかったらしく、風邪をおして宮中に御礼にうかがい、それがもとで亡くなった。
徳川慶喜の父、徳川斉昭も、二十二男十五女、計37人の子に恵まれた
慶喜の父・徳川斉昭(演:竹中直人)もまた艶福家で、二十二男十五女の計37人のお子さんに恵まれた。
斉昭の正室は『青天を衝け』にも登場する吉子(演:原日出子)である。皇族・有栖川宮(ありすがわのみや)家の娘で、名門出身だから、相手も名門の若君を――と縁組みを考えているうちに年を重ね、輿入れした時にはすでに26歳。当時としてはかなりの高齢だった。
吉子は嫁いですぐ、「年をとっているので、子を産むことができるかわからない。だから斉昭殿には側室をつかえさせてほしい」と懇願したという。また、吉子は父から「女は嫉妬の心なきがよし」と言い含められており、「大名でひとりの側室もないのは、私の嫉妬のせいと、京都で思われたら恥ずかしい」と漏らしたとも伝えられている(なるほど、慶喜がこの母の子であれば、嫉妬に狂う妻の行状が理解できないだろう。しかしながら、その母の価値観のほうが現代人には理解できないに違いない)。ただ、結婚する前から斉昭は子どもをもうけているので、話半分に聞いていたほうがよいかもしれない。
斉昭は諸大名から一目を置かれる存在だったので、成人した娘は大大名へ、息子たちもそれなりの大名家の養子に片付いた。
意外なところでは、九男・池田茂政(もちまさ)の孫娘が、渋沢栄一の四男・渋沢正雄と結婚している。栄一から見れば、旧主・慶喜の兄の孫である。ただ、そういった事情を汲んでの縁談ではなく、学習院女子部に花嫁候補を探しにいった仲介役が、学校の推薦そのままに縁談をまとめた結果だという。当時の学習院女子部は、授業中に上流階層の関係者がドカドカと上がり込み、花嫁候補を品定めするような学校だった(と、財界人・朝吹英二の息子の嫁サンが述懐していた)。
渋沢栄一、徳川慶喜、徳川斉昭の側室事情を鑑みるに、現代人には理解できない部分が多く、これを読んでご⽴腹される方がいるかもしれない。しかしそれは当時の価値観なので、いかんともしがたい。そのうち、「織田信長・徳川家康は人殺しだから、ドラマの主人公にするのは反対だ」という声が出てきやしないか、私は憂慮している。
(文=菊地浩之)