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西武鉄道と西武百貨店…外資に売られる“2つの西武”を生んだ、堤一族100年の歴史

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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“西武王国”を築き上げた実業家・堤康次郎。彼の遺骨は西武グループが開発した「鎌倉霊園」(神奈川県鎌倉市)に分骨されているが、在りし日の権力を思わせる古墳のような巨大な墓がそびえ立っている。写真は筑井正義著「堤康次郎伝」より衆議院議長時代の堤康次郎。(画像はWikipediaより)

旧皇族から土地を買いあさった男、西武の創業者・堤康次郎

 いささか旧聞に属するが、この2月、西武鉄道グループのホテル事業売却、そして西武百貨店の系譜を引く株式会社そごう・西武の売却が報じられた。売却先としてはともに、外資系の投資ファンドが取り沙汰されている。

 西武鉄道と西武百貨店はその名が示す通り、同じ系譜を引く企業である。通常、系譜が同じ企業は親密である場合が多いが、この「2つの西武」は決して親密とはいえず、各々が企業グループを形成し、ほとんど別行動を取ってきた。この不可思議な関係は、両社を率いた異母兄弟に由来する。異母兄弟を語るには、まず、かれらの父親から話を始めなければならない。

 西武鉄道の創業者・堤康次郎(つつみ・やすじろう)は1889(明治22)年に滋賀に生まれ、政治家を志し早稲田大学政治経済学部に進学。早稲田大学雄弁会に入り、創設者の大隈重信や永井柳太郎教授から信頼を得た。もっとも、講義にはほとんど出席せず、「政治家になるためには金が必要」との考えから青年実業家への道を歩み始めた。

 康次郎は事業の立ち上げと失敗を繰り返し、最終的に土地開発で成功する。その手始めが軽井沢の別荘地開発である。康次郎は知人から金をかき集め、今の中軽井沢地区60万坪の土地を購入すると、荒れ放題の原野だった土地に道路をつくり、水道を引き、共同浴場やホテルを建て、文化的な別荘地を開発して分譲、大成功を収めたのだ。

 康次郎は箱根強羅(ごうら)、次いで東京郊外の大泉・小平・東村山・狭山・武蔵境などの住宅地を開発し、交通網の整備に着手。1928(昭和3)年に多摩湖鉄道を設立した。ところが、近隣を走る武蔵野鉄道と旧西武鉄道が支線を作り、多摩湖鉄道の営業を圧迫するようになると、康次郎は逆に両社を買収して1945(昭和20)年に合併させ、西武農業鉄道を設立した(翌年に西武鉄道と改称)。

 そして、第二次世界大戦の戦禍が激しさを増すなか、康次郎は庭の防空壕に電話を引き、片っ端から不動産を買いあさった。さらに戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は資産家層に莫大な相続税を課し、旧皇族・華族の財産上の特権を剥奪。相続税が払えなくなると、康次郎はかれらから敷地と邸宅を購入。ホテルを建築し、それらの場所が旧皇族に由来していることから、プリンスホテルと命名した。

父・堤康次郎の乱れた女性関係が生んだ異母兄弟、廃嫡された長男、後継者の三男

 1964(昭和39)年、堤康次郎は東京駅で倒れ、心筋梗塞で死去した。

 康次郎の女性関係は複雑をきわめ、長男、次男、三男の母はすべて違っており、異母兄弟の間にはしばしば仲違いの噂が流れた。長男は廃嫡、次男・堤清二(つつみ・せいじ)は百貨店・流通を譲られ、後継者としてデベロッパー・鉄道事業を譲られたのが三男の堤義明(つつみ・よしあき)だった。

 堤義明は早稲田大学商学部を1957(昭和32)年に卒業、国土計画興業に入社。23歳で代表取締役に就任、1960(昭和35)年に西武鉄道取締役も兼務した。

 国土計画興業(のちに国土計画、コクドと改称)は西武グループの持株会社(西武鉄道の筆頭株主)で、土地開発や観光・リゾート事業を専門としている(極端にいえば、東急グループは鉄道会社が多角化したものだが、西武グループは土地開発会社の付属機関として鉄道会社があるという位置付けだ。それゆえ、堤家は鉄道事業に対する熱意が希薄だったという指摘がある)。義明を持株会社の代表取締役に据えたことは、康次郎が当初から義明を後継者と考えていたことを物語っている。

 康次郎は、「自分が得たものをすべて義明に引き継がせれば、義明がたとい20歳でも自分と同じになれる」と考え、幼い頃から義明を現場にともない帝王学を叩き込んだ。

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もともと軽井沢にあった皇族・朝香宮家の別荘を堤が取得し一部を改修、1947年にホテルとしてオープンした。「プリンス・ホテル」の誕生である。(画像はプリンスホテル新横浜公式サイトより)
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2009年に中央公論新社 から出版された「彷徨の季節の中で」の表紙。次男の堤清二は作家・辻井喬としても精力的に活躍した。同作は反逆と挫折を繰り返しながら自らの生きる道を追い求める自伝的小説。

詩人・文学者にして華麗なる経営者…次男・清二はセゾン・グループを創業

 康次郎は「オレが死んだら、10年間は動くな。10年経ったら、お前の考えでやれ」と義明に言い残した。義明はこの遺言を忠実に守り、ひたすら堅実経営で西武鉄道グループを率いた。一方、次男の堤清二は独創的な経営で西武百貨店を一流デパートに押し上げ、西武セゾン・グループを創り上げる。

 堤清二は東京大学経済学部に進んだが、学生運動に身を投じ、父が大物政財界人であったことからスパイ容疑で除名され、肺結核で闘病生活を送る。完治した後、父の議員秘書を経て西武百貨店に入社、1961(昭和36)年に34歳で社長となった。また、辻井喬(つじい・たかし)という名の詩人・小説家としても活躍し、詩集『異邦人』では室生犀星賞を獲得し、堤家の複雑な家庭環境をモデルにした小説『彷徨の季節の中で』を発表している。

 清二が入社した当時、西武百貨店はまだ地方の名もないデパートに過ぎず、西武鉄道からの天下りが上層部を占拠し、業績も悪く、従業員のモラルも低かった。

 しかし、康次郎の死後、清二は積極的に事業展開を進める。スーパーマーケットの時代が来ると予見し、傘下の西友ストアー(現 西友)の店舗数を倍増。渋谷に西武百貨店を出店。以後も大宮店、静岡店、宇都宮店、浜松店……と積極的な出店を続けた。また、株式会社パルコを設立(パルコとは公園の意味である)。前衛的・奇抜なテレビコマーシャルは脚光を浴びた。1984(昭和59)年、西武百貨店は念願の銀座有楽町に出店し、一流百貨店の仲間入りを果たした。その翌年、清二は「西武流通グループ」を「セゾン・グループ」と改称した(セゾンとはフランス語で「季節」の意味)。

 しかし、大胆な拡大戦略を展開するセゾン・グループをバブル崩壊が襲う。

 系列の不動産・金融会社が抱える莫大な負債に悩まされ、1991(平成3)年に堤清二はついにセゾン・グループ代表からの引退を余儀なくされた。2003(平成15)年に西武百貨店も第一勧業銀行(現 みずほ銀行)の管理下で私的整理に追い込まれ、西友・パルコなど主たる事業を切り売りせざるを得なくなる。

 そして、同じく2003年に経営破綻した大手百貨店そごうと、持株会社ミレニアムリテイリングを設立して経営統合したが、再生計画は軌道に乗らず、2006(平成18)年セブン&アイ・ホールディングス(セブン-イレブン・ジャパンとイトーヨーカ堂の共同持株会社)に買収されてしまう。そして、2009(平成21)年にそごうがミレニアムリテイリング、西武百貨店を吸収合併して「そごう・西武」が設立されたが、今般、セブン&アイ・ホールディングスから売却されてしまうのだ。

日本の“土地神話”を体現した西武の帝王・堤義明、実質12兆円の巨額資産

 一方の西武鉄道グループである。

 同社は「日本の土地神話」を代表するような企業で、その所有不動産の資産価値は、1980年代半ばで12兆円に達すると試算されている。当時、東急グループの不動産総額がおおよそ1兆円弱、三菱地所が1兆円強、三井不動産が2000億円ほどだったというから、桁が違う資産を所有していた。

 康次郎の死後10年を経た1974(昭和49)年、義明はようやく積極的なリゾート開発を展開する。

 義明の開発手法は、山間の僻地に安価で広大な土地を購入して、そこでスキー場、ゴルフ場、リゾートホテルなどの巨大な総合リゾート開発を行い、安かった土地に付加価値をつけて含み資産を増大させるというもので、北海道富良野市のリゾート開発等がその典型事例である。

 1980年代には、各県の知事・市町村長が地方活性化の切り札として「第二の富良野」を目指し、義明の下に相次いで陳情した。義明は「地元が全員一致で誘致を要請しなければ進出しない」という徹底した姿勢で、これを選別していった。すべてが義明の一言で、しかも即断即決で決められた。巨額の富を背景にした専制君主、義明は一躍「リゾート王」として世間の評判を呼んだ。

 義明は政財界をはじめ、あらゆる分野で強い影響力を持ち、早稲田大学の所沢移転にもかかわっていたという。また、スポーツ分野にも造詣が深く、傘下にアイスホッケーチームとプロ野球団を持ち、JOC(日本オリンピック委員会)会長に就任して長野冬季オリンピックの誘致にも尽力した。

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堤一族とその周辺の系図。康次郎の“妾の子”として生まれた堤清二は、共産党員から父の秘書、そして詩人・作家でありながら大企業のトップと……いう数奇な人生を生きた。

西武鉄道の上場廃止、堤義明の逮捕、西武グループの崩壊、そして鉄道会社への“純化”

 1987(昭和62)年、アメリカ「フォーブス」誌は「世界の長者番付」特集記事において、義明を世界一の資産家と報じた。しかし、義明は個人財産をほとんど持っておらず、その試算は誤りだといわれている。

 康次郎は、徹底した堤家の資産保持と節税対策を施してからこの世を去った。巧妙な経理操作で、創業以来、国土計画と西武鉄道は法人税を払ったことがなく、その節税システムは「芸術的」と評された。また、康次郎は企業支配・所有にも異様なまでの執念を発揮し、大量の名義株を使って、堤家が西武鉄道グループを実質的に支配するいびつな株式所有構造になっていた。

 ところが、2004(平成16)年に西武鉄道の監査役が、名義を偽装した大量の株式が存在し、それらを合計すると、筆頭株主のコクドの所有株式が80%を超えることを明らかにした。東京証券取引所の上場廃止基準に抵触する数字である。

 この告発を受け、虚偽記載の記者会見を行った義明は、「私には西武鉄道が上場廃止しなければならない理由がわからない」と発言。堤一族の支配方式を顧みれば、義明の発言には矛盾がない。しかし、当然、その発言には株主をはじめ多方面から非難の声が浴びせられた。

 そして、東京証券取引所は西武鉄道の上場廃止を決定した。この騒動で西武鉄道株式の資産価値は激減し、筆頭株主のコクドは債務超過の危機に陥った。

 主力銀行のみずほコーポレート銀行(現 みずほ銀行)は、副頭取・後藤高志を西武鉄道の社長に派遣、西武鉄道グループの解体・再編を進めた。一方、義明は2005(平成17)年に証券取引法違反容疑で逮捕・起訴され、身動きが取れない状況にあり、後藤案を承認するしかなかった。

 西武鉄道とプリンスホテルは経営統合し、持株会社・西武ホールディングスとなった。それまでの西武鉄道グループは土地開発が主体であったが、この統合により鉄道会社がメインとなり、今般ホテル事業が売却され、鉄道会社に純化していく。やっと、世間の認識と組織の実態が一致することになったのである。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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