「オーケストラのリハーサルを見学するのは、あまり好きではありません。気持ち良く演奏を聴いているのに、急に指揮者によって中断されて、指揮者は何かこそこそとコンサートマスターと話をしたりして、なんだかわからないうちに演奏が再開されるので、釈然としないんです」
これはオーケストラのリハーサルを聴きに来ていた、親しい人物からの言葉です。
このコンサートマスターとの“こそこそ話”ですが、オーケストラのリハーサルでは、言葉は最後の最後に交わされるもので、ほとんどの場面では、指揮者は指揮棒一本でさまざまな要求を伝えていきます。オーケストラの楽員も、実際に自分が出す音や目配せ、ちょっとした合図等で音楽をつくっていくので、実際に言葉を交わすのは最後の最後、どうしてもうまくいかない場面が多くなります。
そんななかでのコンサートマスターとの“こそこそ話”ですが、実は結構シビアなやりとりも多いのです。遠くから見ていると、コンサートマスターは和やかな雰囲気で指揮者と会話をしているように見えますが、時には指揮者としての資質を問われるような質問も出てきます。
たとえば、「この場所なのですが、少しずつ遅くしますか?」といった質問に何が隠されているのか、読者の皆様はわからないと思います。確かに音楽的な確認もありますが、「ここは遅くするのは変ですよ」という抗議が含まれている場合もあります。そこで指揮者がにこやかに、「遅くはなりません」などと言おうものなら、コンサートマスターだけでなく周りの楽員も「でも、指揮は遅くなるように見えているよ」と厳しい目線を送ってきます。
反対に「その通り。遅くします」と言ったとします。それが、遅くするのが音楽的におかしい場所だと、「あの指揮者、本当に音楽がわかっているのか?」と、たった一つの受け答えで、オーケストラ全体の信頼感を失ってしまう可能性もあります。
それが、このコンサートマスターとの“こそこそ話”なのです。
もちろん、「ボーイング(弓の使い方)をどうしようか?」といった質問や、音の長さ、音符の間違い確認等、実務的な会話がほとんどで、コンサートマスターとの会話が常にギスギスしているわけではありません。むしろ、指揮者にとっては、コンサートマスターを味方にするかどうかが、オーケストラとの関係の明暗を分けると言ったほうがいいくらいで、こちらに好感を持ってくれているコンサートマスターとの仕事は、これほど気持ちの良いことはないのです。
指揮者の何気ない一言が混乱を招くことも
ところが、僕がまだ指揮者としてデビューしたばかりの駆け出しの頃を思い出すと、今でも怖かった思い出がたくさんあります。若手指揮者ですから、僕は初めて指揮する曲ばかりですが、これまでに何十回も演奏し、すっかり曲が手の中に入っているオーケストラを相手にするのです。しかも、指揮者といえどもステージではほぼ最年少ですし、経験も積めていないのに、百戦錬磨のオーケストラの前に偉そうに立って指揮をするわけで、コンサートマスターだけでなく奏者からも、たくさんの“愛のムチ”を受けることになります。
もちろん、それを修行の肥やしとしてありがたく頂き、指揮者として一歩一歩成長していくわけですが、「そこなんだけど、何がしたいかわからない」「ソリストよりも棒が速く見える」などと言われると、指揮台に立ち尽くすしかありません。
自分では必死でやっているつもりでも、そう言われてしまうとぐうの音も出ず、とりあえず「すみません」と言うくらいしかないのですが、オーケストラからすれば、「謝ってもらっても仕方ない。結局、どうやって演奏すればいいのか?」と困惑することになります。たった一つのやりとりによって、それまで上手く進んでいたリハーサルが、まるで茨の中でリハーサルしているような状況なったこともあります。
さすがに今では、どのように対処すればよいのかを心得ていますが、若い頃は同世代の指揮者が集っては、「〇〇オーケストラのオーボエに決められた」「あの人は怖いよね」といった話題で盛り上がっていました。
しかし、反対にオーケストラの奏者たちからは、「指揮者の一言で傷つけられてきた」と言い返されるでしょう。指揮者が発した「その音、間違えていますよ」という言葉だけでも、周りの同僚の視線が気になってしまうでしょう。また、「ここの音は短めでお願いします」という簡単な一言でも、リハーサル前に年配の首席奏者が「ここの音は長くないとダメだ」と若手奏者に言っていたとすれば、首席奏者のメンツを潰してしまうことになりかねません。
実際に、指揮者の何気ない一言で、思いがけず大騒ぎなってしまったことがあります。僕が英BBCスコティッシュ交響楽団とリハーサルをしていた時のことです。イギリスのオーケストラの金管セクションはとても優秀で、すばらしいサウンドで演奏するので有名なのですが、その日も彼らは大音量で朗々と演奏していました。
ただ、その会場では響きが強すぎると思った僕は、「少し大きすぎます」と指摘したところ、弦楽器や木管楽器のメンバーから、ヤンヤヤンヤの大拍手が沸き起こりました。実は、彼らは金管楽器の大きすぎる音に、いつも不満を持っていたのです。何も知らない客演指揮者の一言で、おおごとになったわけですが、もちろん演奏会では金管楽器セクションは程よい音量で、すばらしい演奏を繰り広げてくれました。
(文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師)