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山上徹也の伯父の言葉をめぐる「当事者とメディアの使命と責任」

文=沖田臥竜/作家
山上徹也の伯父の言葉をめぐる「当事者とメディアの使命と責任」の画像1
事件直後、SPに取り押さえられる山上徹也容疑者(写真は、筆者のもとに提供されたもの)

 7月14日発売の「週刊文春」と「週刊新潮」が、安倍晋三元首相の銃撃犯である山上徹也の生い立ちや境遇を語る、山上の伯父のインタビュー記事を掲載、大きな話題になった。
 
 実は、伯父にいちばん最初に接触できたのは朝日新聞だった。そこから、各メディアが伯父のもとに殺到するのだが、伯父側には「真実を報道してほしい」という意向があったとされ、そうして選定されたのが、文春、新潮の両誌だったという。一方、テレビ局、新聞社など他のメディアは取材に応じてもらうことができず、業界内ではちょっとした騒動になっていた(ただし本稿入稿のタイミングになって、各社の囲み取材には応じるようになった)。こうした伯父の当初の姿勢に対して筆者は、なぜ、自身の言葉を報じてもらうのに媒体を選択する必要があるのかという思いが湧き上がってきてしまうのだが、それについては後述する。
 
 まずは余談になるが、朝日新聞の教育部から「最近、ご活躍中とのご様子で、撮影付きのインタビュー取材をお受けいただけませんでしょうか?」と連絡があったのは、4月下旬だっただろうか。内心では「わざわざ東京にまで行って、取材に応じるのはひどくめんどくせえな……」と思ったのだが、つい「教育部」という言葉にうっとりしてしまい、条件反射的に「良いですよ~」と応えてしまったのだ。
 
 この件については、私も反省はしている。なぜならば、その後、「まだですか?」的なやんわりとした催促を何度かされながらも、日々の忙殺ぶりを言い訳になかなか取材に応じることができなかったのだ。痺れを切らした朝日新聞サイドが、いよいよ「◯日にこちらから伺います!」となったのだが、ちょうどその日は都内で仕事の予定だったので、「大丈夫ですよ。今度こそ私が行きますから~」と伝えたまではよかったのだが、実際は大丈夫ではなく、上京する前日に、コロナに見舞われてしまったのだ。
 
――さんざん待たせやがって、このボケだけは…――
 
 朝日新聞の沸々とした怒りの声は、手に取るように伝わってきていたが、40度の高熱なのではどうしようもない。コロナが完治すれば連絡ください、と告げられるも、しばらくしてすっかり完治した頃にはそのことを失念し、「あっ、そうだ! 朝日新聞に連絡せな!」と思ったときには、時すでに遅し。「もう紙面が埋まりましたので大丈夫です!」とピシャリと断られてしまったのである。
 
 そっちが取材を申し込んできたのに…と思わなくもなかったが、経緯が経緯なだけに、どう考えても悪いのは、私と、しいていえばコロナである。またよろしくです的な連絡をして、肩の荷を下ろしたのだった。

文春と新潮の埋めがたき差

 余談ついでにもう一ついえば、山上の伯父のメディア選定についてだが、確かに伯父が選んだ文春の取材力、記事の構成力は半端ではない。伯父のインタビューを取った上に、安倍元首相事件関連の特集で40ページをブチ抜き、他誌を圧倒して見せたのである。

 現場に派遣された記者の数も半端なかった。大手新聞社ですら10人前後だったのに、文春は20人も現場に投入させてきたのだ。至るところに文春の記者の影があり、その取材力や人脈に他メディアも圧倒されることになったのだが、果たして新潮はどうだったかというと、少し勘違している側面があっただろう。簡単にいえば、伯父のインタビューが取れたということにあぐらをかいたのか、特集全体としては食い足りない印象だった。
 
 初めに一言いわせてほしい。新潮さん、ごめんなさい……私めはこういう人間なんです……でも、先日依頼された書評原稿は締め切り前に入稿しましたから……。
 
 もう随分と前から、紙の雑誌に原稿を書くことはしていない。格式でいえば、書き手はネット媒体ではなく、紙媒体を選ぶのだろうが、私は、各々の媒体独特の編集方針、例えば、この週刊誌ならばこう書かなければならない、この新聞紙ならこういう日本語を使わなければならない的なスタンスと、きっちり決められた文字数のキメ原(完成に近い原稿)で入稿しなければならないことが、堅苦しくなってしまったのだ。それでいて原稿料は安いし……。
 
 ただ、先日は久しぶりに新潮の知り合いの人から電話で書評を頼まれた際、すぐに断ろうと思ったが、その破格の原稿料を聞かされ、引き受けてしまったのだ。だから余計に、新潮のことを悪くは言いたくないのだが、新潮と文春に同日に掲載された山上の伯父のインタビューを含む特集記事を比較してみると、両誌には埋めがたいほどの歴然とした差が生じてしまっていることを感じてしまったのだ。
 
 昔の人は、文春と新潮といえば、二大巨頭として見ていたが、現在、新潮の売れ行きは週刊誌の中では二番手ですらないのだ。山上の伯父も、世代的に2誌に対するよいイメージが根強かったのだろう。十分な誌面を割き、真実を報道してくれるはずと評価していたからこそ、当初は他のメディアの取材は受けず、この2誌のみに対応したのだと思われる。
 
 ただ、冒頭でも触れたが、山上の伯父が、正しく報じられることを求めて、取材を受けるメディアを選別すべきような立場だったかどうかについては一考に値するはずだ。
 
 確かに文春は、山上徹也について、憐憫に訴える記事を掲載している。安倍元首相銃撃の是非に議論の余地などないが、蛮行に及ぶまでの山上を取り巻く境遇は残酷過ぎたことがわかる。
 
 7月19日に凍結された山上本人のTwitterアカウントと思われる投稿からも、そうした点が伝わってくる。だが、そういった抗いきれない現実があったとしても、どんな境遇であろうとも、山上に同情や情状酌量の余地があるかといえば、それは別次元の話だ。いくら山上の境遇が不幸であったとしても、それと安倍元首相の間に直接的な接点など微塵もないからだ。
 
 山上の伯父は、山上に関して真実を報道してほしいという気持ちが強いようだ。伯父は、弁護士という聖職に就いているだけに、立派な人物なのだと思う。宗教に傾倒してしまった山上の母親に、最後の最後まで何度も手を差し伸べ、山上自身についても今も見捨てようとはしていない。そこからは、筆舌には尽くし難い苦悩と葛藤に苛まれていたことを容易に想像することができる。ただ、不幸なことに、伯父は犯罪者の親族となってしまったのだ。それも安倍元首相を凶弾で倒した殺人事件のだ。
 
 そう考えたとき、山上の生い立ちや環境を正しく、広く報じてもらうためにも、山上の伯父は、自身の言葉を報じる媒体を選択すべきではなかったのではないか。少なくとも、真実を報じるのはメディア側の責任だ。山上の素性や背景を洗い、報じていく。その中には事実と異なる記事や誇張や歪曲された内容も入り混じってくるだろう。だが山上は、そのような扱いを受けてしまいざるをえない罪を犯してしまったのだ。
 
 山上にも守られるべき人権はある。不幸な境遇もあっただろう。だからといって、今は国民の知る権利に応える立場にあるメディアが筆を鈍らせてはいけない。もちろん、不法性を伴う報道などに対しては、山上サイドが法的手段なりをとって白黒はっきりさせればいい。突然、針のむしろにのせられた親族の心中は計り知れないものがあるが、山上の伯父の言葉は、国民の誰もが知るべき対象であり、それをどう評価するかも国民の判断に委ねられるべきなのだ。
 
 安倍元首相銃撃事件をめぐる情報や議論は錯綜している。特にSNSの論調は危険だ。ときに得体の知れない正義を「いいね」や「リツイート」によって生み出してしまう。だが、心配することはない。見ていて不愉快な気分になるものは、そっと閉じれば良いだけだ。人間が生きている世界はネットの中ではなく、現実の社会だ…とか言いながら、私は今日もネット媒体で記事を綴るのであった。
 
(文=沖田臥竜/作家)

沖田臥竜/作家

沖田臥竜/作家

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

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