赤福は4月23日、三重県伊勢市内で臨時株主総会を開き、濱田典保社長の事実上の解任を決めた。総会後の取締役会で、典保氏の母親、勝子氏が新社長に選ばれ、典保氏は代表権のない会長に退いた。典保氏の父親は2代目社長の益嗣氏である。
2007年に赤福の製造日偽装が発覚し、10代目当主の益嗣氏は会長を辞任。以降、05年に社長に就任していた11代目当主の典保氏が、経営の全権を握ってきた。関係者によると、経営方針をめぐり益嗣氏と典保氏が対立し、典保氏は事実上、解任されたという。
赤福は非上場企業で、益嗣氏が社長を務める濱田総業が発行済み株式の85%を握り、残りを益嗣氏と典保氏でほぼ二分してきた。1960年に慶応義塾大学経済学部を卒業した益嗣氏は、家業を継ぐため赤福の専務に就任。当時、従業員は94人、年商は8400万円だったが、益嗣氏は家内工業の域を出ない赤福を近代的な生産体制へと変身させた。売り上げを増やすためにテレビコマーシャルを始め、大量生産するために新しい工場を建設するなど経営の舵を大きく切った。これにより、赤福の年商は92億円(13年9月期)にまで拡大したが、家業を企業にした益嗣氏は、赤福の基礎を築いた祖母、濱田ます氏の経営に原点回帰することを考え、勝子氏を中心に家業型経営に戻そうとしていたという。
赤福の始まりは江戸時代中期。1707(宝永4)年に、初代治兵衛が伊勢神宮内宮の五十鈴川のほとりで、お伊勢参りの参拝客をもてなすために開いた餅屋がルーツ。赤福の名前は「赤心慶福」(せきしんけいふく)に由来する。まごころ(赤心)を尽くすことで、素直に他人の幸せを喜ぶ(慶福)ことができるという意味で、参道沿いの茶屋として人気を博してきた。
そんな赤福が大きくブランドイメージを損なう事件が、創業300周年を迎える07年に発覚した。それが、消費期限の偽装事件である。同社は「まき直し」(売れ残り製品を包装し直し、消費期限を再設定)、「先付け」(遠隔地向けの包装紙に、翌日以降の製造日と消費期限を刻印)、「むき餅・むきあん」(店頭から回収した赤福餅を餅とあんに分離。むき餅は赤福餅に再加工し、むきあんは、あんとして関係会社に販売)などの偽装行為を行っていたのだ。同社内ではこれらの隠語が使われるほど日常的に偽装行為が行われていたのだ。
●赤福ブランドが「全国区」になるまでの道のり
赤福の300年の歴史の中で、中興の祖といわれているのが、8代目当主の未亡人、濱田ます氏である。22歳で赤福8代目当主・濱田種三氏に嫁ぎ、48歳のとき夫が病死、その5年後には婿養子に迎えた9代目当主・濱田裕康氏が戦死した。残されたのは生後9カ月の益種氏(のちに益嗣に改名)。この時、ます氏は大黒柱となって働き、株式会社となった1954年に初代社長に就任した。