70年代はダイエーの黄金時代だった。大阪・千林店の開店からわずか15年目の72年、年間売上高で百貨店の雄・三越を抜き、小売業日本一に輝いた。すさまじい勢いで首都圏へ攻め上った。新規出店の際に中内氏はオープン前の店舗を必ず巡回し、品揃えが気に入らないと売り場の責任者を怒鳴りつけた。「モヤシが新鮮でない」といってザルごと頭からぶちまけられた野菜売り場の責任者もいた。
そんな強烈なリーダーに率いられたダイエーは80年2月期、初めて小売業で売上高1兆円を達成。次なる目標として4兆円構想を打ち出した。小売業の華である百貨店事業への進出を掲げ、フランスの百貨店オ・プランタンと提携した。百貨店の問屋ルートを確保できないまま、プランタンは神戸三宮、札幌、大阪千日前、そして東京・銀座と立て続けに出店したが、商品力の弱さは致命的だった。V革ではまず、百貨店事業の撤退に着手した。「過去の『ワンマン中内』を知る人には信じられないだろうが、私はこのとき、計画の立案から実行までのすべてを若手に任せた」(前出『私の履歴書』より)
河島氏は若手幹部を指揮して、利益を重視した経営へと軌道修正した。在庫管理を徹底して3年後の86年2月期決算では連結利益を黒字転換させた。V革が成功すると中内氏は第一線に復帰し、ダイエーは元の“中内商店”に戻った。河島氏は、中内氏が再建を引き受けたミシン製造会社リッカーの社長に飛ばされた。ダイエー本体からの事実上の追放である。さらにV革を支えた若手幹部たちは経営中枢から次々と関連会社に出され、多くは退社を余儀なくされた。
そして中内氏がやったことは、長男の潤氏を31歳の若さでダイエー本体の専務に抜擢することだった。「自らの復権と長男・潤を社長にするためのレールづくりに腐心した。これがダイエーが解体される元凶となった」と元役員は証言する。イトーヨーカ堂のオーナー、伊藤雅俊氏もこの時期、副社長の鈴木敏文氏を中心とする業務改革に取り組んでいた。成果が上がると伊藤氏は鈴木氏にバトンタッチし、伊藤氏は経営の第一線から退いた。さらに後継者とみられていた長男も退社し、その後、イトーヨーカ堂を擁するセブン&アイ・ホールディングスは日本最大の流通グループに成長した。危機に直面した2人のオーナーの対応の違いが、両社の運命の分かれ目となった。
(文=編集部)