ダイエー系列の「ダイエー」「グルメシティ」の店舗数は約280店(8月末時点)。関東や関西にある店舗は食品スーパーに特化し、北海道と九州の約60店舗は別のイオングループに移管。また、18年度をメドに「ダイエー」の屋号をなくす。
ダイエー創業者の中内功元会長は、1970~80年代には同社を日本最大の小売業にまで成長させ、流通業界のリーダー的存在として君臨したが、中内氏の原点は飢餓地獄の中から奇跡的に生還したフィリピン・ルソン島での戦争体験にある。かつて日本経済新聞社刊の著書『私の履歴書』で「アブラ虫、みみず、山ヒル…。食べられそうなものは何でも食う」「死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食べたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した」と語っているが、戦争とそれに続くマニラでの俘虜体験がエネルギーの源泉になった。
「神戸から2つの大企業が生まれた。ダイエーと山口組だ。どちらも焼け跡から這い上がってナショナルチェーンになった」。これは中内氏の有名なセリフだが、山口組3代目組長の田岡一雄氏も、欲望が渦巻く神戸の闇市から巣立った。焼け跡から出発して流通王にまで駆け上がった中内氏だったが、90年代後半から経営危機が表面化し、産業再生法の適用および産業再生機構からの支援を受けるに至り、その後は筆頭株主となった丸紅に経営権を握られた。
ダイエーはなんとか経営破綻は免れたものの、中内氏は芦屋市六麓荘町、東京・田園調布の邸宅、ダイエーの株式など数百億円といわれた財産は、ことごとく大手銀行に借金のカタとして取られてしまった。最晩年の唯一の収入といえば、自ら創設した流通科学大学の理事長として月々支給される30万円程度の給料だけだった。そして2005年9月19日、中内氏は入院先の神戸の病院で83歳の生涯を閉じた。六麓荘町の家は半年前に人手に渡っていたため、一度も亡骸を自宅に戻すことができず、大阪市此花区の正蓮寺にそのまま搬送され、近親者だけで密葬を済ませた。当時産業再生機構の支援の下で“脱中内”を進めていたダイエーは、社葬を催せる状況になかったが、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏、イオンの岡田卓也氏、西友の堤清二氏など、戦後の流通業界の黎明期を築いた人たちが発起人となり、流通関連11団体が合同で同年12月5日、東京・千代田区のホテルニューオータニで「お別れ会」を開いた。ちなみに六麓荘町の家の現在の持ち主は、パチンコ大手のマルハンである。
●V字改革、そして“中内商店”への回帰
「どうかもう一度、オレを男にしてくれ。みんなでオレを助けてくれ」。中内氏は1983年2月期の連結決算で初めて65億円の赤字に転落することが明らかになったとき、東京・浜松町オフィスの14階会議室に集めた幹部社員の前で、床に頭をこすりつけて号泣した。ここから、河島博・副社長を総指揮官とする「V革作戦」が始まる。ダイエーを手術するため、中内氏は当時日本楽器製造(現ヤマハ)社長だった河島氏をスカウトしてきた。