芝浦は東芝の発祥の地であり、今はオフィス街、マンション街である。だが、もともとは東京湾の海を埋め立てたところであり、それ以前、山手線の東側は干潟であり、落語に有名な「芝浜」という噺があるように、小さな漁村であり、市場があった。
市場と言っても、日本橋や神田にあった大市場ではなく、雑魚を扱う雑魚場だったらしい。ということは漁村だ、市場だといっても、貧しいものであり、だからこそ落語では、甲斐性のない魚屋が仕入れに行くのであろう。威勢の良い、景気の良い魚屋は日本橋や神田にいたのであろうと私は推察している。
芝の増上寺や神明社の周辺には大歓楽街があり、東海道(現在の国道15号線)に沿って品川まで盛り場が続いていた。海を眺めながら遊ぶ場所だったのである。明治5年に新橋-横浜間の鉄道が完成すると、風光明媚で鉄道発着所も近い芝周辺は、土地の将来性が期待された。温泉旅館や魚問屋から転業した料亭や茶店が軒を連ね、海水浴場、花火や潮干狩りなどの行楽としても発展した。料亭「いけす」などは大繁盛をし、芸者の需要も高まり、芝神明からの芸者を呼んでも不足するほどになった。
明治35年5月に芸妓置き屋の「松崎」が営業を開始し、それをきっかけに芝浦芸者が誕生した。40年には置屋28軒、芸妓81名、待合20軒を数えた。歌舞伎役者、落語家、吉原のたいこ持ち(幇間)たちも客として押し寄せた。谷崎潤一郎の主催する雑誌『新思潮』の編集部も「松崎」の中にあった。
芝浦三業地
だが明治40年頃から海側の埋立が進み、海辺の景色が失われ、賑わいも減っていった。明治末期には東海道線の騒音もうるさくなり、客は減り、花街全体が経営不振に陥った。埋め立て工事が完了すると、本芝町の花街は芝浦に移転した。大正12年に関東大震災が起こると、他の花街から移転してくる業者もあった。
芝浦の港も都市復興のための資材の輸送で賑わい、芝浦製作所や東京瓦斯などの大工場ができるなど発展した。築地の魚市場も一時的に芝浦で営業をするなど、芝浦三業地は再び活気を取り戻した。
芝浦の三業組合は、地元の名士・細川力蔵が設立資金の大半に当たる額を寄付して設立されたものである。また細川は、昭和3年には芝浦の自邸を増改築して北京料理店の「雅叙園」を開店。目黒に今もある雅叙園(昭和6年開業)の、いわば本店である。支店の目黒雅叙園のほうは昭和18年まで増改築を繰り返し、巨大化していくが、芝浦の本店のほうは第2次世界大戦中に閉館したという。
花街ができると、見番(けんばん)ができる。見番とは、芸者遊びをする人たちが最初に立ち寄り店や芸妓の予約をする場所である。芝浦に見番ができたのは昭和11年。2階には芸妓たちが踊りなどの稽古をする演舞室、舞台と大広間があった。
棟梁は雅叙園と同じ酒井久五郎である。酒井は伊豆の土肥町の出身だったが、土肥町は海まで山が迫り、土地がないので、農業に向かず、多くの若者が大工になった土地だった。だから雅叙園、見番の建築にも土肥町の若い大工が活躍したそうだ。
しかし昭和17年、戦争が激しくなると、芝浦三業地は疎開・移転し、三業組合も解散した。芝浦は本格的に工場・倉庫・港湾地帯となっていたので、空襲の恐れがあったからである。見番だけは警視庁の管理となり、港湾労働者のための宿泊所となった。
協働会館から伝統文化交流館に
戦後、見番の周辺は焼け残っていたので花街も復活した。だが進駐軍がここを慰安所に使うという噂が飛び込んできた。隅田川沿いの大倉喜八郎の別邸も慰安所になったくらいだから、その噂はかなり信憑性がある。そこで芝浦の人々は、外壁をわざと黒く塗るなど、古くてすすけた感じに偽装して、慰安所にするのをなんとかあきらめさせたという。
そして昭和22年、見番は「協働会館」と命名され、近辺の花街時代の建物と一緒に東京都港湾局に管理され、引き続き港湾労働者の宿泊所として利用された。また町内会など地域の人々の集会所、あるいは剣舞、日舞、謡いなどの稽古場としても使われることになったのである。
協働会館は、平成 12 年3月に老朽化のため施設が閉鎖されたが、18 年6月に「協働会館(旧芝浦見番)の現地保存と利活用に関する請願」が採択され、保存活用を望む地域の声を受けて、区は、21 年 10 月に港区指定有形文化財として指定、27 年2月には旧協働会館保存・利活用のための整備計画を策定し、建物全体を南西側に8メートル移動させる「曳家(ひきや)」を行うなど、保存整備工事を進め、令和 元年12 月 20 日に竣工、2年4月1日に新たに「伝統文化交流館」として開設された。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)