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三浦展「繁華街の昔を歩く」

特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しい

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

 マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で有名な葛飾区亀有には、戦後すぐ赤線地帯があった。JR亀有駅南口を出て右斜め方向に行ったあたりである。赤線地帯の名前を「亀有楽天地」といった。戦争で焼け出された墨田区の玉の井の私娼窟の経営者が立石、亀戸、鳩の街などと並んで亀有にも移転してきたのが由来である。

 終戦直後に占領軍のためにRAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション、特殊慰安施設協会)による慰安所が各地につくられたが、亀有もそのひとつであり、1945 826日に慰安所が開設された。性病の蔓延のために慰安所はすぐに禁止されたが、そこがそのまま赤線地帯(特殊飲食店街)として残った。1952年の時点で、東京都内の赤線地帯に1142軒の特殊飲食店があり、4454人の娼婦が働いていた。亀有には43軒の特殊飲食店があり、180人の娼婦がいたという。

 赤線跡地も現在では、もうだいぶ店も建て替わったようだが、それでもスナック、飲み屋などとして残っているところも少なくない。

特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しいの画像1 特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しいの画像2 特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しいの画像3 特殊飲食店がたち並ぶ赤線地帯だった東京・亀有を歩くのは、なんとも楽しいの画像4

 赤線跡地の南側には水戸街道が走っている。今は国道6号といわれ、浅草からが水戸街道と呼ばれるようだが、本来は北千住(千住宿)の日光街道から分岐して、葛飾区小菅1丁目を経由して、現在の水戸街道より少し北側を亀有まで来ていた。つまり赤線地帯のすぐ南である。だから江戸時代から亀有に街道を行き来する人々のための飲食、娯楽、慰安の店があったとしてもおかしくない。そういう土地の歴史が赤線を引き寄せたのであろう。

 水戸街道をそのまま東に進むと中川。橋の手前のショッピングモールと川の間には香取神社があり、橋を渡っていると、お寺や神社がいくつか見える。そのあたりが水戸街道沿いの一画である。今の水戸街道は橋を渡るとまっすぐ進むが、旧街道は川に沿って南に曲がる。ここが新宿(にいじゅく)の宿場である(葛西新宿ともいう)。沿道には問屋や旅館45軒が並んでいたらしい。参勤交代の武士たちもここで休憩した。中川で獲れる鯉は美味だったという。今もぽつぽつ商店が営業している。地主か名主と思われる立派な家もある。

 江戸時代の水戸街道は、東海道、奥州街道、中山道に次いで往来が多く、日光街道、甲州街道よりもずっと多かったというから、かなり栄えていたのである。商業が盛んで、小都会のようだったという。農業専業は少なく、農地は他の地域の村民が耕作に来ていたというから、けっこう優雅な暮らし方をしていたのである。

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新宿、衰退の理由

 旧街道を南下して突き当たると東に左折。道の南側に日枝神社がある。しばらく歩くと北に左折。ただしここで南に右折すると佐倉道である。水戸街道は水戸佐倉道といわれ、水戸道と佐倉道がここで分岐するのである。水戸道のほうをしばらく歩くと、今度は東に右折、という具合に旧水戸街道は四角を描いて曲がり続ける。このように曲がり道にしたのは、見通しを悪くして戦(いくさ)の時に敵が攻めづらいようにしたものである。角には寺や神社を配置して、いざというときはそこに隠れられるようにした。

 この新宿には花街や飯盛宿があったような雰囲気がない。おそらくそういう機能を亀有のほうに任せていたのではないかと私は勝手に推測しているが、どうだろう。

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出所:http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-6-2-46.html

 このように栄えていた新宿なのに、今はあまり知る人はいないだろう。鉄道ができてから、商業などの中心はどうしても駅周辺に集中するからである。だから金町駅からも亀有駅からも遠い新宿なんて、住んでいなければ知らない、遠い場所だ。

 本当ならそういう宿場に鉄道を敷くべきだったかもしれないが、町民の一部が鉄道に反対して敷かれなかった。こういうことは明治時代にはどこでも見られた現象である。鉄道は、それまでの馬を使った輸送業者から見れば敵であり、また蒸気機関車が吐き出す煙や火の粉が嫌われたのである。

 だから新宿にも駅はできなかった。運輸の中心としての座は奪われ、参勤交代もなくなって、かつての宿場町は衰退したのである。

大学と街

 さて、この旧水戸街道を歩いて京成金町駅に近づくと、街道の幅は4メートルほどしかなくなる。この幅が街道の本来の幅だという。いくら旧街道でも、その後自動車に合わせて少しは拡幅されているが、この京成線の近くは幅が非常に狭い。その狭い街道沿いに居酒屋、焼鳥屋などがずらっと並んでいる。金町栄通りである。

 しかし、これらの店も10年ほど前までは開店休業のような店やシャッターを閉めた店が多かったという。そこに2013年、東京理科大学工学部が神楽坂から移転してきた。学生数4000人。また駅前のタワーマンションなど、駅周辺には新しいマンションが建ち、新住民が増えて、街道沿いだけでなく商店街が息を吹き返したのだそうだ。

 北千住も東京電機大学が駅のすぐそばに移転し、東京芸術大学の一部ができたりすることで若者が増え、かつ毎年新しい学生が入学してくるということで、街が人気を取り戻した。大学というものは街を再生する上でかなり大きな力を持つようである。

(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

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三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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