立川駅周辺は、新しいビル、マンションが建ち並び、その間をモノレールが走る未来的な風景の街だ。アニメの舞台にも使われるので、聖地巡礼のファンもたくさん集まるらしい。2018年の夏に私はアムステルダムに行ったが、そこで会った建築家が立川に行ったことがあり、驚いたと言っていた。あまりに未来的だったからである。
立川は、軍が航空部隊の基地とするため、立川村、砂川村で土地を買収し、大正11年(1922)に広さ45万坪の立川飛行場ができたのが近代都市化の始まりだ。飛行場は、昭和8年(1933)まで軍用としても民間飛行場としても利用される「東京国際空港」でもあった。その後、民間飛行機は羽田に移り、立川は軍専用となった。
軍によって発展する北口に対して、南口の開発は遅れていた。立川駅には昭和5年(1930)まで北口しかなかったのだ。今の南武線(旧・南武鉄道)が開通してから南口ができたのである。南武鉄道と地元農民によって昭和15年(1940)に土地の整理事業が完了。整然とした区画に高級な住宅地ができ、商店が並んで南口銀座が誕生した。
南口では昭和3年(1928)に、錦町1丁目に二業地ができた。その後、羽衣町にも二業地ができて、花街としても発展した。錦町のほうは「錦町楽天地」、羽衣町のほうは「羽衣新天地」といわれた。羽衣新天地は、江東区の洲崎の遊廓の疎開先として昭和14年につくられたものだった。遊廓とはいえ当時は物資が不足していたので屋根が杉の皮だった。そのため羽衣新天地は「すぎっかわ」と通称されていた。
「夜の市長」の“功績”
戦争が終わると軍事関連の従業員は全員が解雇され、市の人口は半減した。市内には失業者が溢れた。
そこに米軍が進駐してきた。立川周辺の米軍基地群で働く日本人は約2万人。うち立川基地だけでも1万2000人であり、市内の全従業員数を上回った。
日本軍の貯蔵していた物資や米軍からの横流し品が街頭に現われ、駅北口の広場から高松通りにかけてずらっと露店が並び、闇市が形成された。遊廓も接収されて日本人は行けなくなった。
米兵相手に夜の女性も増えた。高松町、曙町、富士見町、錦町、柴崎町などに「洋娼」のためのハウスが300軒以上、ホテルが約60軒、ビヤホール、バー、キャバレーが100軒以上できた。曙町、錦町には白人兵、羽衣新天地には黒人兵が通った。