戦後の赤線は東京の下町に集中
最近は遊郭、花街、三業地についての本がたくさん出版されるようになった。2018年10月にも朝日選書から『新宿 「性なる街」の歴史地理』(三橋順子著)が出たが、これが新宿2丁目や歌舞伎町を中心としながら、それのみならず東京の旧赤線地帯をくまなく調べていて大変な労作である。
料亭、待合、芸者置屋からなる三業地は東京中にあった。本連載でも、品川区の五反田、文京区の白山、荒川区の尾久、大田区の大森、中野区の新井などを紹介したが、西側にも東側にも北側にも南側にもあまねく存在した。それらは単なる売春を防ぐために、警察が認めた娯楽の街だったからである。
だが赤線となると東側に集中している。浅草に大正時代にあった銘酒屋(めいしや)と呼ばれる私娼窟が、近代都市計画によって墨田区の玉ノ井に移転させられ、カフェー街となった。しかし、それが戦災により壊滅。戦後も復活したが店の数は減り、代わって墨田区の鳩の街、江東区の亀戸、葛飾区の亀有、立石などに分散した。
また、戦後、米軍相手の慰安施設が各地にでき、それらがその後、警察により日本人向けの赤線地帯に指定された。上記の場所に加え、吉原、新宿、北千住、品川、洲崎といった江戸・明治以来の遊郭はもちろん、葛飾区の新小岩、江戸川区の小岩などが赤線地帯になった。そして、それらは東京の下町に多く分布したのである。23区内の西側では大田区の武蔵新田にあっただけらしい。西側には高級な住宅地が多く、支配階級の人々が多く住むので、赤線地帯のようなモノはできるだけ東側の下町に固めておこうという意図があったのかもしれない。
ただし、警察が指定した赤線地帯とは別に違法な青線地帯もあったが、これは違法であるだけに、どこにどれだけあったかははっきり言えない。中央線沿線など西側の東京でも、米軍基地のあった立川はもちろんだが、三鷹、吉祥寺、西荻窪、阿佐ヶ谷、中野にも、ここは青線だった、チョンノ間があったという地域が、狭いけれど、今も残っている。
旧赤線の亀戸に行ってみると風情のある光景が
『新宿 性なる街の歴史地理』はこの下町の赤線地帯についてよく調べている。見たことのない地図や写真も多く掲載されており、興味をそそる。
そこで私も、赤線地帯のひとつ、亀戸に行ってみることにした。亀戸の赤線地帯は亀戸天神の裏手、北側にあったそうだ。そういえば数年前に下町散歩の本を書くための取材に行ったことがある。今も料理屋などがあり、昔の風情が残っている地域だが、赤線地帯としてじっくり見たことはなかった。
三橋の本を基に歩いてみると、確かにやけに道がまっすぐで、四角く囲まれたような一帯がある。古本で見つけた亀戸の赤線の写真を見ると、2階建ての長屋のような建物だが、そういうふうに建物が並んでいたのだろうと想像がつく街区である。ただし今はマンション、アパート、戸建て住宅などに建て替わっているので、元赤線だとはまったくわからない。
それでも隅々まで歩いていると1軒だけ、どうもそれらしい建物があった。上のほうがアーチ状になった窓が並んでいて、柱などにタイルが貼られているのだ。こういうデザインは赤線地帯にありがちなものだ。そのすぐ近くには古いそば屋、その並びにはやはり古い薬局や喫茶軽食の店があり、往時の風情を残している。
これは亀戸スタイルか?
なるほど、じっくり見てみると、赤線時代らしい名残は見つかるのだな。感心しながら帰路に就き、亀戸名物船橋屋のくずもちを食べて、駅に向かう。亀戸天神の近くの商店街には、戦前らしい看板建築の商店が並んでいるが、実に色が派手だ。昭和の商店街というと茶色というかセピア色の雰囲気を思い浮かべる人が多いだろうが、実際できたばかりのときはこのように原色に近い派手なものだったのだろう。なにしろ江戸から東京に変わる、モダンな都市に変貌することを、こうした商店も表現しようとしたはずだからである。
駅前に近づくと有名な亀戸餃子で餃子を食う。腹一杯になったところで駅に向かう。右手にビルが見える。なんと、アーチ状の窓が並び、タイルではないが、横が茶色である。先ほどの赤線時代の名残の建物と似ているじゃないか。まさか意識したのではあるまいが。もしかして亀戸スタイルか。奇妙な偶然があるものである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)