「週刊少年ジャンプ」(集英社)の人気漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、同)のアニメ化作品のテレビシリーズ第2期作品集「遊廓編」が年内に放送されることが発表された。ファンにとっては待望の続編発表の報せであった一方、Twitter上では同作品で大正時代の吉原の「遊廓」が描かれることに関して若干のハレーションが見られた。
折しも、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長が、女性発言で退任し、ジェンダーに関する議論が活発化していたこともあり、「子どもの見るアニメで遊廓を取り扱うことの是非」めぐり、さまざまな意見が噴出している。
鬼滅アニメ第2期は原作漫画8~11巻の内容と見られている。主人公の竈門炭治郎や竈門禰豆子、メーンキャラクターの吾妻善逸、嘴平伊之助、そして鬼殺隊の音柱・宇髄天元吉原らが、東京・吉原の遊廓に潜む「上弦の陸」の鬼の兄妹、堕姫と妓夫太郎らと戦うストーリーだ。同作品に登場する鬼は、鬼になるまで悲劇的な身の上を背負っていることが多い。今回、登場する堕姫と妓夫太郎も同様で、2人のキャラクターに深みを加えるのが「遊廓」という舞台設定だ。
一方、Twitter上では「遊廓編」放送が発表された当初から、「子どもに遊廓を説明できない」(原文ママ、以下同、当該ツイートは19日削除された)「遊廓がどんな場所でどんな悲劇があったのかを分かっていたら題材にふさわしくない」などという投稿も散見された。
こうした投稿に鬼滅ファンや、常々アニメ全般の表現の自由を主張するネット論客が反応し、Twitter上で激しい言葉のやり取りが行われたのだった。
女性の人権を守ることは現代社会の重要命題だ。一方で、現代の視点から「遊廓」という歴史的な存在を無かったことにし、それを舞台にした作品や表現を否定してもいいのかという指摘もあるだろう。
今回のネット上の論争を一つの契機として、現代社会に生きる我々は「遊廓」をどのようにとらえればいいのか。赤線や遊廓研究家で遊廓や赤線に関連する文献を専門的に出版する株式会社カストリ出版代表の渡辺豪氏に見解を求めた。以下、渡辺氏の寄稿文を原文のまま掲載する。
<カストリ出版・渡辺氏の寄稿>
遊廓の存在は現代のコンビニの密度に近しい
売春防止法が公布された昭和31年当時、さまざまな形態をとった娼家の数は、労働省の調べによれば、全国に約3万9000軒存在したとみられる。これは当時の人口10万人あたり約43軒に相当し、現代におけるコンビニの密度44軒に近しい。遊廓と俗称された娼街は、「社会の暗部」「密かな悪所」とのイメージが膾炙しているが、(都市部や山間部などの偏りはあるものの)密度の上では例外的で隠された存在などではなく、わずか60年前の日本人にとって身近なものでさえあった。
映画化された漫画『鬼滅の刃』が、長く国民的作品として愛されてきたジブリ映画を抜いて、歴代興行収入1位を記録したことをきっかけとしてか、同作品がたびたび社会現象扱いされることも珍しくはなくなった。そうした作品が巻き起こした今回の論争は、同作品を鑑賞したことのない私にも、SNSなどを通じて伝わってきた。その論争とは、子どもが読者対象となる作品において、売買春の場であった遊廓を扱うことの是非、と理解している。
江戸時代、浅草寺からおよそ1キロ北方にあるエリアに吉原遊廓が開かれた。戦後の公娼廃止や売春防止法といった一連の解体・再編成によってカタチは変わってもなお、現在もソープランド街として存続している現行の娼街である。私はこのエリアで遊廓専門の出版社と、同じく遊廓専門の書店を経営している。8割以上が20〜30代の女性客で、以前は女子中学生が両親を伴って来店してくれたこともあった。こうしたことから、遊廓は女性にとって関心が高く、ときに若年女性の興味すら引くテーマであると日常的に理解している。今回の論争には、読者本人の世代から読者の母親世代まで、広く女性が関心を寄せたのではないかと予想している。
ときに「華やかなりし江戸文化発祥の地」「江戸文化人のサロン」との称揚を含んで紹介されることもある遊廓だが、私は遊廓における娼婦・遊女は性奴隷であったと理解している。とりわけ明治期の開国以降は、高まる国際的な人権意識の潮流の中で、日本政府は自国の公娼制度(遊廓)の温存に腐心した。加えて前近代までの売買春に寛容だった社会から変質し、近代以降は娼婦に烙印を負わせる社会になった。
また、たびたび俎上に乗せられる、売春行為の倫理的・道徳的な問題以前に、親が子を売り渡すことができるという親権の制度的建て付け、そして大衆はその行為を「貧しい親を救う孝女」とみる価値観(これは現代にも尾を引いている)が、公娼制度が抱えた問題の核心の一つと私はみている。これは「当時の社会状況や価値観では仕方なかった」のではなく、国内外から非難を浴び、国際条約や国内法令にも違反する状況だった。
遊廓を材に取った浮世絵や歌舞伎、あるいは落語は枚挙に暇がなく、今やクールジャパンとして海外から認知されている。現代になってからも遊廓を描いたマンガ、文芸、映画が製作されている。もし遊廓が存在しなかったならば、日本のアート・カルチャー史は 書き換えなければならず、遊廓が多面的な価値を持つことには疑いがない。
ただし遊廓が一面として持ち得た「文化的価値」は、遊女と呼ばれた女性の窮状に対する免責理由には到底なり得ない。どれだけ価値があろうと、アート・カルチャーは人間に仕えるものであると私は考えている。
翻って、こうした歴史的経緯や功罪併せ持つ遊廓という存在を、子ども向け作品に用いるのは「忌避すべき」という主張があるとすれば、現在の社会状況を考えるとき、根本的な解決にならないとも考えている。
「子どもにとっての遊廓」ではなく「大人にとっての遊廓」
現代は、インターネット上の性風俗情報や遊廓を扱うサイト、SNSアカウントを運用するセックス産業に対して、掌にあるスマホを通じて容易に繋がることのできる社会である。都市部に住む児童であれば、通学路の途上、性風俗街を垣間見ることもあり得るだろう。
現代のセックスワークとかつての遊廓を混同し得ないことは言うまでもない。ただし、大人が目を背けがちな情報に接した子どもが「セックスワークって何?」「遊廓って何?」と問う相手は、常に大人であり、しかもそうした問いが発せられる状況は、これまでのどの時代よりも高まっていることを、強く意識したい。
『鬼滅の刃』作品内で遊廓が高尚に描かれようが、興味本位に描かれようが、私たち大人は、子どもの問いから逃げることはできない。論争の本質は、『鬼滅の刃』という一作品性の如何を超えている。
本質は「子どもにとっての遊廓」ではなく、「大人にとっての遊廓」の捉え方であり、今回の論争は、歴史を取り扱う大人の能力を、わかりやすく炙り出している。
私たち大人は遊廓について説明する言葉を失っている。もちろん、人によって遊廓についてのスタンスは異なる。否定的に見る向きもあれば、肯定的に見る向きもあり、総論各論それぞれがグラデーションである。しかし散見される論争の少なくないものは両極からの意見対立であり、極論化は知識の貧しさを反映していないだろうか?
遊廓が「子どもに与えるには早い」情報であるとするならば、遊廓について知り、学ぶ機会を、私たちが子どもから大人になる過程において、どれだけ持っているだろうか? 確かにAmazonで検索すれば、遊廓に関連した書籍が大量に提案され、機会に事欠かないように見える。が、実際に売買春が行われていた場である娼家といった一次資料に接する機会は失われている。量的に恵まれていても、質的には置き去りにされている。一次資料は一部の研究者ばかりが重用するものではなく、私たち一般人こそ、一次資料に接することで、過去と真摯に向き合う心が醸成されるのだと私は考える。
冒頭、遊廓は数値の上ではコンビニ感覚に近いほど身近な一面もであったと述べたが、しかし近年、遊廓の存在を示すもの、例えば娼家やそこで使われてきた資料(大福帳など)は急速に失われており、私たちの知識(記録や記憶)から急速に抜け落ちつつある。私はこれまで10年ほどかけて全国の娼街を500箇所内外取材してきて、それを肌感覚で感じている。
遊廓についてなんらかの公的な資料館、それも専門家による多くの議論を重ねて、コンセンサスを得た施設などがあれば、今回の論争もまた違った方向に向かっていったかもしれないと想像している。仮に子どもからの同様の問いや議論がなされたとき、「では、遊廓の資料館に行こう」と応えられたはずである。当然、子どもの知覚ではすべてを理解はできない(大人ですら理解できるとは限らない)だろう。しかし、子どもが理解への手掛かりを得る価値は計り知れない。大人が子どもに与えるべきは、完全なレクチャーよりも、掴むべき手掛かりである。
許しがたいほどの女性の窮状があればこそ、私たちはそうした歴史の一部を保存し、例えば先に挙げた資料館などの施設を通じて価値を普遍化するべきだった。が、私たちは遊廓の歴史を忌避し、不可視化してきたことによって、「遊廓なるもの」の捉えどころをなくしてしまった。
価値の普遍化があろうとも、遊廓という人間の性(さが)に根ざした問題が持ち上がれば、常に異論百出するだろう。しかし私たちは普遍化によって標準的知識、換言すれば共通語を持つことができる。
「解釈」「価値観」という、便利でかつ他者が踏み込みがたくする言葉の下に分断され、次世代の子どもたちに継ぐべき言葉を私たちは失っている。
以上が、今回の論争から得た私なりの雑感である。
●参考文献
売春対策審議会『売春対策審議会資料』(1957年)
小野沢あかね「戦前日本の公娼制度と性奴隷認識」『性奴隷とは何か シンポジウム全記録』所収(2015年、御茶の水書房)
(文・構成=菅谷仁/編集部、協力=渡辺豪/カストリ出版代表)