労働運動の闘士として、55年以上最前線で闘い続けてきた「東京管理職ユニオン」のアドバイザー・設楽清嗣氏。同氏は昨年一線を退いたが、アドバイザーの身となった今も多くの会社員からの労働相談を受ける。労働委員会や裁判などでの争いにもかかわり、安保法制への反対闘争にも参加した。
設楽氏へのロングインタビューを行った。5回に分けて掲載する予定で、今回はその1回目となる。
設楽氏の労働運動への熱き思いを聞くと、愛国者に思える。設楽氏は、「国を愛しているならば、左翼か右翼しかない」と言いきる。その思いに迫った。
「社長よ、首を洗って待っていろ!」
東京管理職ユニオンが結成されたのは1993年。86年から続くバブル経済が崩壊した直後だった。多くの企業がリストラを本格化するなか、設楽氏はメディアを通じてこう叫んだ。
「リストラをするならば、まずは社長や役員が辞めろ!社長よ、首を洗って待っていろ!」
それから20年近くたった。この間、団体交渉や裁判などを通じて非を認めさせ、また謝罪させた経営者は数えきれない。経営者の団体や経済界、メディア、ときには警察からも問題視されるほどの強硬な路線だった。
しかし最近は設楽氏から、「社長よ、首を洗って待っていろ!」と聞くことはなくなった。
「90年代は、経営危機を労使がどのようにして克服するか話し合う余地があった。そのようななか、社長や役員が辞めることなく管理職たちが辞めるように仕向けられる。これは誤りだ。だからこそ、まずは社長や役員が辞めるべきで、辞めないならば辞めさせてやると主張していた」(設楽氏)
さらに、「社長や役員への追及をやめたわけではない」と前置きし、こう続ける。
「今や、社長たちが辞めたところでサラリーマン労働者の雇用は守られない。もちろん、不当な行為には抗議を続けていく。裁判もするし、経営陣への追及も行う。問題は、そこから先にある。今は、この産業社会をどのようにつくり直すかといった根本的なところを踏まえたうえでの闘争にしていかないといけない。その体制を立て直す状況に、我々はいる」(同)
自民党の崩壊は早い?
設楽氏の闘争の人生は、60年の日米安保反対闘争から始まった。慶應義塾大学文学部哲学科に在籍し、学生運動に参加した。東京都立田園調布高校の頃から運動にかかわっていたが、本格的なデビューは大学に入ってからだった。
日本共産党に入り、運動に力を注いだ。しかし岸信介内閣のもと、日米安全保障条約が締結された。運動は敗北したのだ。設楽氏は共産党支部などで「運動が負けたことの理由と根拠を明らかにすべき」と党幹部に迫った。それが災いし、除名処分となる。
「共産党がその後、衰退していった理由のひとつは、私のような異質を受け入れなかったことにある。あんな独善的な考えでは、組織は弱くなる」(同)
一方で、自民党のしたたかさを指摘する。
「岸首相が退陣し、その後、池田勇人内閣が誕生する。あの低姿勢にはやられた。あそこまで腰が低くなれるのはすごい。あれが自民党のすごみだ。“所得倍増”と、つまらないスローガンを掲げ、安保の『あ』の字も言わない。国民大衆はそのスローガンに騙された。一方では、日米安保と三井三池闘争で敗北した労働側や左翼リベラルの側に対しては過酷な要求をし、困難を強いる。そういうところは、きちんと落としまえをつけていた。
岸に続いて池田が出てくるという具合に、党として厚みがあった。共産党のように選択肢がひとつ限りではない。自民党は異質や異端を認めていたことで派閥争いも発生したが、結局は強い政権となる。同党が長く政権を担った理由は、そこにある。
しかし、最近の自民党は安倍晋三首相に権力が一極集中し、新たな総裁候補を擁立することもできなかった。共産党と同じようなものだ。自民党が崩れるのは早いのではないか」
自己犠牲を払って闘う気概がなければ、労働者や国を守れない
当時は左翼に勢いがあった。一方で、右翼も戦後十数年を経て、活発化し始めた頃だった。
「右翼はすごい危機感だったと思う。どこのタイミングで左翼を粉砕するか、と考えていたのではないか」(同)
60年、17歳の少年が社会党委員長の浅沼稲次郎氏を刀で殺害した事件は、学生運動の闘士だった設楽氏にも影響を与えた。
「すごいことをやるもんだ、やられたと思った。私は“テロがけしからん”という考え方が大嫌い。闘えば殺し合いもある。彼らの思想ならば、一人一殺もあるだろう。政治のためには、一命を賭して闘うことはあり得る。あのような行動やその動機は、容易に理解できる。外国にすり寄るような発言をする政治家たちに対して、国を憂い愛国の思いがみなぎるあまり『何を売国的なことを言っているんだ! いい加減にしろ!』と怒る思いは十分すぎるほどにわかる。私は今でも、労働者がこんなに格差で苦しんでいる状況に対し、『ふざけるな!』という激しい怒りを持つことはある」
設楽氏は、自らを「ナショナリスト」と認める。
「私は、本当のナショナリズムを否定しない。左翼の意義は国や社会、労働者のことを憂いて愛することだと思う。国を愛しているならば、左翼か右翼しかない。私は日米安保には反対だったし、今も賛成できない。学生時代、日米安保を破棄し、日本人による義勇軍をつくって自主独立を守るべきだと主張した。70~80年代、北海道にソビエト連邦が侵攻してくるといわれていた。そのときは義勇軍を結成すべきだと思っていた。70年代の成田空港反対闘争の頃は、自衛隊出身の男たちと武力闘争の訓練もしていた。いざとなれば銃をとって自己犠牲を払って闘う気概がなければ、労働者や国を守れない。そうでないとナショナルなものは成立しない」(同)
右翼との大同団結はあり得る
「民族派の一水会の鈴木邦男さんや木村三浩さんから、こう言われる。『左翼をやめて民族派になれ。愛国者で安保や原発に反対というのは我々と同じ。“天皇陛下万歳”とさえ言ってくれれば、もう仲間だ』。しかし、私は天皇制が好きではないから、そんなことは言えない。私は民族派や右翼に違和感がまったくない。左翼と右翼は根っこの部分に重なるものがある。今後、日本が重大な危機になったとき、民族派との大同団結はあり得る」
東京管理職ユニオンにも、民族派や右翼、国粋主義者の組合員はいるのだという。異質がいるからこそ組織は強くなる――それが設楽氏の持論である。「右の人と手を結ぶことに違和感は全然ない」と淡々と話す。
「思想うんぬんよりも、行動で一致することが大切。行動を共にすると、思想の違いなんてすっ飛んでいく。一緒に闘いメシを食うと、右翼とも手をつなぐことができる。むしろ、左翼思想に凝り固まるほうが難しい。たとえば、共産党員や、かつての社会党の協会派の人たちと共闘することはなかなか厳しい。ごりごりの左翼でも、大衆運動をしているならば共に闘うことはできるが、その数は決して多くない」(同)
次回は、これからの労働運動について聞く。
(構成=吉田典史/ジャーナリスト)