発見まで、自殺の決行から4日がたっていた。首吊りによる遺体は、相当に腐敗が進んでいた。研究室のドア近くで、その変わり果てた姿と対面した課長職の女性が、切り裂くような悲鳴を上げたのも当然だ。
現場には、家族宛と学部長宛の遺書があった。
「人を人とも思わぬ非道を許せない。一死をもって抗議する」
学部長に対しては、そのような激烈な怒りの言葉が綴られていた。
これが複数の関係者から語られた、現場の状況である。さらに関係者たちの話を総合すると、N先生の死の背景には、雇用をめぐる大学側とのトラブルが浮かび上がってきた。
N先生は、東京工科大学の特任講師だった。2015年6月12日、N先生が自殺を遂げたのは、同大学八王子キャンパス研究棟Cの自室研究室である。
どんな企業や団体でも、構成員が死亡すれば訃報が公表されるのが当然である。だが東京工科大学では、N先生の訃報は公表されなかった。むしろ箝口令が敷かれ、N先生の死は隠蔽され続けている。そして今、彼が使っていた研究室では、何が起こったかまるで知らない新たな教員が仕事をしている。
1947年に創立された創美学園が、東京工科大学の起源だ。東京都八王子市片倉町の八王子キャンパス、東京都大田区西蒲田の蒲田キャンパスがあり、工学部、コンピュータサイエンス学部、メディア学部、応用生物学部、デザイン学部、医療保健学部を擁している。
ゲーム制作などを行うメディア学部は、日本で初めての設立だった。同学部の客員教授には、手塚治虫の息子でヴィジュアリストの手塚眞氏がいる。シンガーソングライターのダイスケは同学部出身だ。自由な校風で知られる同校で、なにゆえ凄惨な自殺が起こり、今に至るまで隠蔽されているのか。
突然「今年で辞めていただく」と告げられる
N先生が東京工科大学に着任したのは、2012年10月。「特任教授募集」に応募したのだが、採用されてみると「特任講師」であった。N氏は講義を持たず、学生の就職指導を専門に行う講師を務めた。多かれ少なかれ、どこの大学でも就職率を気にするが、東京工科大学でもその傾向はあり、教員のボーナスにも影響するという。就職できそうもない学生にきつく当たったり、受かるところに無理矢理にでも就職させて、自分の研究室の就職率を上げている教員も少なくないという。
N先生のもとに相談に来るのは、そうした研究室から弾き飛ばされかねない、就職力の弱い学生だ。そもそも就職する意思がなく「働きたくない」と口にする学生に対し、N先生は働くことの意義を一から説いた。昼食時間でも、学生が訪れれば相談に応じた。
2014年11月12日、大学の最高議決機関である大学評議会で、N先生の雇用契約の延長が発議され、同年11月には雇用契約を2018年9月までとすることが承認された。
だが、年が明けた1月、N先生は学部長から「今年で辞めていただく」と告げられた。N先生は、不当に雇い止めがあった場合に備えて、労働基準監督署への相談・申告、労働審判の件、弁護士への相談などの準備のため、その証拠保全に努めた。
それが3月になると、学部長より「これからも、ずっとよろしくお願いします」と言われ、仕事が続けられ、家族を養っていくこともできるとN先生は安堵した。
しかし6月12日、学部長より突然「9月で辞めていただく」と告げられた。普段は温厚なN先生が、あまりの理不尽さに怒鳴ったという。N先生が自分の研究室で自殺を遂げたのは、その夜だ。
その日の夕方、夫人は「今日は大学の近くに泊まる」とN先生からの電話を受けていた。翌週になっても帰って来ず連絡もないために、夫人が大学に連絡したのが6月16日。午前9時過ぎ、N先生は変わり果てた姿で発見された。
N先生の研究室のドアには、面談予約していた学生向けに「キャリアサポートセンターで相談に乗ります」とのみ記された紙が貼られた。
学内広報に訃報は載らず、箝口令が敷かれ、N先生の死は隠蔽された。それから2年がたった今、N先生の存在そのものが無き者のようにされている。